他人・地獄・救済

サルトルの「出口なし」が私の触れるカルチャーではよく題材になったり言及されたり元ネタにされていたりするので、きちんと読んでおこうと思って探したらこれが読むまで、その文章を目にするまで、えらく難儀してちょっと驚いた。青空文庫的なものにないのはサルトル1980年没だから当然として、岩波とかちくまあたりからどうせ文庫で出てるんだろ?と検索したらもう本当1968年発行そのまま放置どころか版元すら消滅とか世界文学全集の中に入ってます(もちろん絶版)とかしかなくて、「出口なし」どころか入口がなかった。やっと古本で買ったよ、それでも奥付みたら昭和52年モノで私とそんな歳が変わらない本がきた。

とりいそぎ「出口なし」だけ読んで、あとは大江健三郎の「水死」といったりきたりでパラパラめくってて、私、全部最初から読み通す前に適当に開いたページを読んで、また適当に開いたページ読んで、というのを結局3分の1くらい繰り返してからきちんと読み始めたりするのでもう全然速読とか無理というか速読の必要性がわからない。必要な人には必要なんだろうけど私はむしろ時間をかけてゆっくり厳選した本の中をたゆたうことを好む。沢山の本を処理できないし、本の情報を処理する、という感覚を忌避する。この速読に向いてない、という性分によりTwitterの膨大な量とスピードについていけなくなって相当調子崩してて、睡眠障害(特に眠りの質)がシャレにならなくなりちょっと遠ざかってみたら何の不便もなくて驚いた。Twitterに費やす時間がもったいなくなった。

生真面目なところが仇になったというか、「今何してる?」と問われたら延々と答えなければならないような気がして、そばに人がいたらなんとなく言うだろうけどいなかったら別に言わなくてもいいようなことを全部言わなければならないような気がして、そんな行為は夢日記をつけているうちに具合が悪くなっていったというつげ義春武田百合子の状況を追体験しているようでした。

マイペースでいるように思われがちだが、ものすごくその場の流れや空気に影響されてしまうので、あの速さや量に負けないようにむしろに加担していくという状況で自分の首をしめたというか赤い靴脱げなくて踊り続けるしかなかったというか、なんというかもう自分も他人も望んでいないのに呟き続けるという大変な状況であった。そんでナタ振り下ろされて足ごと赤い靴から解放されたら、残った身体にはもう言葉がなかったよ。全部すり減ってなくなっていた。

だから、サルトルと大江をいったりきたりして言葉をゆっくり吸収しなおしている作業が割と楽しい。人とじゃなくて本と会話している時間が楽しい。本といったけどもそこには人がきちんといる。登場人物がいて作者がいて、軽く流れてゆく言葉じゃなくて、ずっと重く残る言葉があることに落ちついて、やっと人心地を取り戻しつつある。

呟き続けている間は「学校で友達がいなきゃならない」と思い込んでいた時のような窮屈さがあったな、もっと自由な空間も選べるのにその窮屈な場所にいるのが自然だという思い込みがあった。それで息が詰まって満員電車の中でパニック発作起こしそうになる感覚に近くなってしまっていた。もともと馴れ合い的な友情関係を結ぶのが苦手で、つるむのも苦手で、ゆるい関係の続け方の距離がわからない、でもそれをやらなきゃならないと思い込んでいた人間には向いてないツールだったと今は思う。情報を集めるならとことん集めなきゃ気が済まない性分なのも災いした。コミュニケーションの勉強のためとかなんらかの告知とかで使うくらいはあるかも知れないけど、まだ睡眠障害やなんやかやが完全に治ったわけではないので、今のところ養生のため近寄らないようにしている。実生活で満員電車を避けるのと同じこと。ネットライフでもパーソナルスペースの確保って大事だな、と身に染みた。

夢とかちょっとした思いつきっていちいち記録するとロクなことになんないな、と、私みたいな気質の人間に対しては思うけど、それが合う人だって当然いるわけで、好きなようにすればいいだけなんですよね。夢は夢のまま放置してその世界を遊ばせておいて、こっちに引きつけない方がいいな。いや予知夢とかちょっと背負いきれない悪夢とかそれ以外にも他人に話してもよさそうだったり、むしろ話さなきゃならない*1夢もあるけど、夢マップ系(現実世界とは違う自分の家とか配置とかある程度決まってるパラレルワールド続き物)に関しては寝起きの余韻以外で覗いちゃいけないと思います。あれを記録するのが夢日記から気違う原因だと思う。

「好きにしていい」はずなのに特に好きでもないそれを「好き」だと思い込んでしまった、そういう思い込みの処世術の罠にはまったことで「出口なし」になってしまっていたのか、と、サルトルの言葉をかみしめつつ、私にとっての「出口」は結局音楽と文学に収斂されていく様も改めてわかり、まあ原点を見つめ直せたことはよかったです。

カラッカラになって全く言葉も涙も出なくなっていた時に小澤征爾復活の特集見ていたらその復活一曲目の弦楽セレナーデがあまりにも壮絶な音楽になってて驚く間もなく嗚咽した。今までのよく整理されて理知的な(ため無味乾燥とか機械的とも評されてしまう、まあ実際小澤家の音ってあって、90年代小沢健二ヴォーカルの特徴とよく似てます)音の積み重ねを捨ててないのに気迫というかエモーショナルなものが全く違うステージになってて、この人50年くらい棒降り続けていてやっと振り出しに辿り着いた!?みたいな、なんかもう本当壮絶としか言い様がない、芸術に選ばれて生きることの責任と幸福があいまみれてくんずほぐれつしながら前進する姿を見て、長生きして下さい、と一心に願うことしかできず、まったく荘厳すぎて圧倒されて、そこから発せられるエネルギーに従うほかなかった。まったく誰も聴いた事がない音楽が生まれる期待と、それを生み出せる人に残されてる時間を考えてこの人の音がなくなったらどうすればいいんだろう、という焦りで涙が出て、音楽って命がけだな、いや生きるための行為全て命がけなんだな、と、75歳で大病から戻ってきた人でああなんだから、自分が未熟なの当たり前すぎるだろう、と、くよくよしてる暇あったら本読めと、じゃあサルトルの「出口なし」読みたいなとググって愕然、という流れでした。

もともとハードカバー好きじゃなくてハードカバーで手元にあっても文庫が出たら買い直してハードカバー処分するような人間なんで、電子書籍が早く普及すればいいなと思いましたのと同時に、英語か仏語のペーパーバックだったりネット上のテキストは簡単に見つかったので英語と仏語の習得の必要性*2も感じました。書けなくてもいい、話せなくてもいい、この際。ただ、そこにあるニュアンスを理解できるように読めるようになりたいです。読みたくなるものの嗜好を考えるとこの二つの言語があればだいたいカバーできるというか、トランスに使われるパワーって仏語→日本語ってものすごく膨大だと思うんです、だからきっと私の嗜好にあうはずなのに、私こそが読むべきなのに、英語あたりまでは翻訳されてても日本語翻訳まで手が回らなくて届いてないものがたくさんある気がするので、無性に悔しくなりました。ただ、自分が読み書きする分には漢字カタカナひらがなのデザインの違いで見た目のバランスが楽しいのと、どこまで読んだか文章の流れの形(ここにあの漢字が挟まってた、とか)で覚えやすいので日本語がいいです。日本語書きに愛着はすごくある。

*1:夢枕系、たまに伝えなければならないメッセージを承ることがある

*2:英語→手段、仏語→目的