サビナの乾いた孤独

誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分されるであろう。
 第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別なことばでいえば、大衆の視線に憧れる。(中略)
 第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。この人たちは大衆を失ったとき、彼らの人生の広間から火が消えたような気持ちになる第一のカテゴリーの人たちより幸福である。(中略)
 次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。(中略)
 そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。(以下略)
 ーミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳)P340,341より引用ー

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

これを読んだ時、私はどのカテゴリーなんだろう。そしてここで主要登場人物の中で唯一言及されていないサビナもどのカテゴリーなんだろう、と考えていた。
そこで、とりあえず私は横に置いておき、サビナについてまず検討した。
即座に否定できるのは第二のカテゴリー。第四のカテゴリーもその説明の記述からサビナはここに属していないと判明する。画家ではあるけれども第一のカテゴリーも違和感がある。となると残るのは第三のカテゴリーであるが、サビナは愛している人たちから逃げて逃げて新大陸の西の端まで流れていった。それは第三のカテゴリーの人間のすることなんだろうか。彼女は四つのカテゴリーのどれにもあてはまらない「例外」として登場させられたんじゃないかと短絡的に自分を納得させてすませていたのだけれども、どうもあの「水死小説」を読んだあとにサビナのことがやたら気にかかって再検討してみた。

ちょっと読み返したらすぐわかるのだけど、まったくもって、彼女は第三のカテゴリーの人間だった。主人公たちの愛のテーマ(それはドン・ファンを気取ったトリスタンとイゾルデ)があって、それとの比較で愛の重さに耐えきれず自ら広間の火を落とし、闇の中に入ってもなお生き続ける人間として設定されていたのだった。愛の代わりに闇を手に入れた人間は愛も孤独も何もかも乾燥させて軽く舞い上がるまで薄っぺらく加工して、すべてを嘲笑いながら(嘲笑う対象として一番比率が高いのは自分自身だ)消えてゆくしかないのだった。同情を最も嫌うこの誇り高い人に、それでも同情してやりたくなるのは、ともすると私がすぐこの状況に自分を追い込んで自分を可哀相がる俗悪なところがあるからです。

第二のカテゴリーの人が世の中の人口の大多数を占めている分、こういう人への対処法もそれなりに構築されていているから楽といえば楽である。第一のカテゴリーの人も、まあそれなりにあしらえるだろう。厄介なのは第四のカテゴリーに属する人の反応だ。第四のカテゴリーの人に、その求める想像をおしつけられた時のやるせなさ。その人たちは決して私を愛してくれないのだ。彼らの想像上の「私」しか彼らは求めていなくて、実際に今生きている「私」は必要としていないのだ。そして、彼らの想像の中でいともたやすく結びついて託される女神とか観音菩薩とか天使とか母性とかそういった類の都合のよいものを演じるのもまっぴらごめんなのだった。彼らが求める「私」は、あらかじめ「私」本人を拒絶した「私」像なのだった。そのプレイにボランティアで付き合うのはもうできないと、はっきりわかった。それで私は第一のカテゴリーの人間じゃないことも同時にわかった。私は「大衆」を求めていないし、私自身が「大衆」になることも望まない。

バンクーバー以来、フィギュアスケートから足を洗ったと友人などからは思われていたのですが、結論からいうと洗ってません。正確にいうと足抜けに失敗しました。思っていたより私はフィギュアスケートを根源的に好きだった。トリノでかかった魔法はバンクーバーで解けたけど、そうなった後に、自分の人生の真ん中から趣味の一つへと動かすことに成功した、ということです。ジャパンオープンの放送見て小塚リスト→ショパコン!浅田リスト→ショパンノクターン!安藤グリーグ→メンコン!高橋ピアソラ→ラフ2!とそれぞれ過去の最もその個性がいかされていたプログラムに通じるものを感じて、ポスト五輪シーズンだなあと興奮してテレビ放送と仕事のシフトのやりくりに必死になるくらいにはきちんと見てます。ただ、現場が遠くなった。というか、なんであんなに私は遠征できていたのか金銭的にも精神的にも体力的にも不思議に思う。平日の夕方の吉祥寺駅で人が多過ぎてどもるようにしか歩けなくなっていて、半年前までの自分に驚いた。魔法はすごいな。それをやり遂げた自分も誇りに思う。ここ一番で無理を通して道理をひっこませることができる自分の才能を褒めちぎるほかはない。

フィギュアスケートの演技を見るのは楽しいけど、会場が自分にとって快適であるとは限らない。魔法がかかっていて力技で押さえ込めていた時はよかったが、今はまっさらな状態だ。そうなった時、私は自分があの場の「大衆」であることが耐えられなくなった。客観的にテレビ放送を見ていて伝わってきた「大衆」の姿。そこで起こっていたことが、第一のカテゴリーの人を第二のカテゴリーの人が単純に消費しているという状況だったらまだ私は許容できたと思う。だが、そこに映っていたのは、第二のカテゴリーの人たちが集団催眠にかかり第四のカテゴリーとしての資質を限定的に開花させ、登場してくる第一のカテゴリーの人物そのものを見ずに熱狂している宗教的陶酔のドキュメンタリーでした。第一のカテゴリーは「大衆」を欲するからそれで構わない。第四のカテゴリーも「想像」を欲するからそれで構わない。その決して交わらない視線にあてられたし、それに加担したくないと思ったら、ただの「趣味」で見ている私の現場での居場所が気付いたら見当たらなかった。愛するものをただ愛でる視線を送る場所はどこにもなかった。私の望むちょっとした隙間すら作ってくれない「大衆の熱狂」が怖かった。「大衆の熱狂」にとりこまれたくなくて、テレビ画面から逃げたかった。一刻もはやく次の演技が始まることを強烈に願った。その場にいた大多数がその場で咲かせた第四のカテゴリーの残骸は、その持ち場を離れると、基本的資質である第二のカテゴリーのカクテル・パーティや夕食会のメニューとして消費されてゆく。あの「大衆」は第一のカテゴリーが何をやっても崇拝するのだから、第一のカテゴリーの才能がスポイルされそうでいたたまれなくなる。私が愛するフィギュアスケートを、大多数が感動を分け合える「キッチュなもの」として貶められていくことには決然と拒否の意思を示したい。

ここで、便宜的にフィギュアスケーターを第一のカテゴリーと区分してしまったけれども、実際にはそうではない人も多々存在する。日本人選手に限ったって、安藤美姫なんかは、はっきりと第三のカテゴリーの人間で、(彼女の言葉でいうところの)お客様も第三のカテゴリーの人間として一人一人独立した愛する人々として捉えてその場にいる。浅田真央も本質としてはそういう人間のように思える。男子二人に関してはよくわからないけれども、というか、第一のカテゴリーそのものであるような発言を繰り返す高橋大輔なんかむしろ本人からそれはどういう心境なのかよく聞きたい。ほじくりたい。このカテゴリーが一番よくわからない、きちんと接したこともない。本気でそう思って言ってるのかすらよくわからない。本気で言ってるならより一層興味深いことになる。

なぜなら、私は彼の見せる「孤独」に惹き付けられて、それを生で感じたくて「フィギュアスケートの現場」という敷居の高さを乗り越えてその場に辿り着いたからだ。ラフマニノフのピアノコンチェルト2番で露骨に出ていた「孤独」が今回のフリーのピアソラブエノスアイレスの冬を見たら相変わらず健在で驚いた。この人の「孤独」と「大衆の視線への憧れ」の関係がどう本人の中におさまっているのか気になって落ちつかない。まるっきり第一のカテゴリーの典型のようでいて、その実、第三のカテゴリーに属しているような、ドン・ファンを気取っているけど実はトリスタンだった、というような可能性をどうしても捨てきれないのは、その「孤独」が私とよく似た種類の「孤独」に見えてしまってたまらないから。愛するものを欲するが故の「孤独」にしか見えないから。この種類の「孤独」は決して共有できないけれども、似たような「孤独」を持つ人と一緒ならば安心して「孤独」になれる、という種類の「孤独」だから。かつ、ドン・ファンを気取っているのではなくて(SPのラテン・メドレーはなんとドン・ファン的なのだろう!)、ドン・ファンもトリスタンも両方本質として併せ持っているのだとしても、それともどちらか、もしくは両方ともが演技なのだとしても、その仕組みを解明したくていてもたってもいられない私が今ここにいる。