ウナイコとしての実存
大江健三郎「水死」を、ノーベル化学賞日本人受賞の報道の数時間前に読み終えて泣きながら寝ていた。
- 作者: 大江健三郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/12/15
- メディア: ハードカバー
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大江健三郎は自分のことを作品内で「近代作家」と規定していたけれども、それはマーラーが「クラシック音楽作曲家」であることによく似ている。もともと大江文学はマーラーのようだ、マーラーの交響曲は大江健三郎のようだ、と、この二つはよく響き合って私の中に存在していたんだけれども、「クラシック音楽」の大作曲家がバッハに始まりマーラーで終ったように*2、「純文学」の大作家が夏目漱石に始まり大江健三郎で終ったことまで一緒になったのか、と、震える思いです。
「レイト・ワーク」と呼ばれる作品群を一冊も読んでないどころか、文庫三冊(一番最近のもので「万延元年のフットボール」)読んでいきなり「水死」にいっていいのかな、わかるのかな、と思いながら読み進めましたけれども、これこそ今読まないといけない本でした。大江健三郎という老作家がきちんと21世紀初頭を生きてその文化・風俗を分かち合っていることがヒロインの呼び名の命名のくだりでわかって、その由来となった髪型はここ数年「女子」に人気のいわゆるお団子ヘアなんだけれども、お団子ヘアを見て、70代の大江さんがどう感じているのか、それを今知っておくことで彼と時代を共有していると感じられて、初めてこの作家が今生きている作家だ、彼は「現代作家」なんだと認識できて、そのことに存外な感動を得たからです。彼が歴史上の人物じゃなくて今この時を共有できていたなんて!今この時間はきっと成城学園前の自宅の書斎にもなっている部屋で寝ているんだろう、その事実に私がどれだけ驚愕しているか!
今まで少しでも大江文学に触れたことある人はいきなり「水死」読んでも大丈夫なんじゃないかな。今まで読んだことなくてもヒロインの造形を受け入れることができたら乗り切れるんじゃないかと思います。あと読みやすい。文体やテーマに対しての感じ方は個人差があるからそこは押し付けられないけれども、小説構成として非常に巧みで一日一章寝る前に読むのにちょうどいい分量でちょうどよく話も進み、そのペース配分が全く押し付けがましくなく絶妙で自然で、書く技術の勉強とか参考になる。むしろ、純文学を愛している人なら読まなければならない、そういう位置づけのものです。
ちょっと読んでその情景がイメージできなくて、難儀した劇中劇として挿入されているシークエンスについては、たまたまピナ・バウシュ特集の放送がBSであって、その放送されたツアーの「私と踊って」を(この放送収録日ではなくて、セカンドキャストだったけれども)観に行ったこと、そこで黒い帽子が果たしていた役割を思い返したらすんなり理解できました。「死んだ犬」は「黒い帽子」、ついでに「投げる」行為は「サンデル教授の講義様式」での発言。この公式大事。2010年現在そういう舞台が実際に成立している、それに参加したがる層が実際に存在していることを覚えておくと挫折しそうになった時には役立つ。
「普通の」大江健三郎読者がどう読んでいるのかわかりませんけども、私の読み方はこの作家のヒロインの描き方にフォーカスを絞ったもので、この人の作品のヒロインはやたら妊娠しては中絶してるイメージがあり、そしてそのヒロイン側を主人公にした物語を書きたいとぼんやりいつも読みながら思っていた。でも、そこにある「大江のテーマ」という大交響曲に拮抗するものを生み出すにはあまりにも私はちっぽけすぎて、まだできない、そんなこと誰かに言うことすら恐れ多過ぎて無理だ、と、ずっと尻込みしてきました。そもそも、大江のヒロインは遠い、私の知らない空気を吸って生きてきた人としか思えなかったから、それをまず現代に適合するように変化させるという作業を「ノーベル賞作家」の大看板の前でどこの馬の骨かもわからない小娘がやっていいわけがない、と思い込んできたのです。
それが、今作のヒロインは私と同じような生き方をしてきた、私と同年代・同世代の女性でした。すなわちこのヒロインだったら今現在お団子ヘアでPC作業しているような私が時代背景など加工せずそのまま延長線上で描写できるということです。なおかつ今作では「ヒロインの主題」は解決されずむしろ放り出されて終ってしまったことでその主題を引き継がねばならないとすら思いました。*3
私が大江健三郎という作家を好きなのは、女性の描き方で、これ以上はわからないと思ったらそこに踏み込まないデリカシーを持ち続けているところです。男性作家の描く女性像はあまりにも無邪気にその作家の理想や幻想を投影されていて、こちら側から読むと辟易することがあまりにも多過ぎて読み難くてしょうがないのだけれども、その一点においては大江健三郎は信用できるため、大部分の男性作家よりまったく読み進めるのが「難解」ではないです。女性作家の描く男性像もそうなのだろうか、としばらく考え続けたことがあるんだけども、その割合は男性作家の描く異性より、やはり低いんじゃないだろうか。女性が現代社会で生き延びていくためにはどうやったって「男性化」せざるを得ない部分が出てくるのだけれども、男性は「女性化」しなくても平然と生きて行ける、そういった社会の投影じゃないかと思う。
程度問題でいえば信用できるとはいえ、それでもこの人はこの人で無邪気な女性観を持ち続けてはいる。ご自身でもそれはしっかり自覚なされていて今作でも長江先生めっちゃ女たちに怒られまくってる。実生活で出している人格の多くは田舎で育ったのんき坊主なんだろうきっと。その内に渦巻く暴力性は作品で昇華していることにいつもほっとする。小説を書くことができなかったらこの人はこうやって生きてこれなかっただろう、その「生きるために書く」切実さに共感して、私も書こうと思った。
だって気付いた。私、こんな、マーラーの大交響曲みたいな小説書く才能持ってない、と大江健三郎を読む度に思い知らされていたけれども、そもそも交響曲書きたいかと考えたら、別にそうでもなかった。そんな大きな話は書けないけど、もともと大きな話を書くつもりもなかったのでした。
*1:「こころ」がけっこう重要なモチーフとして引用されてます
*2:諸説入り乱れているけども私の主観
*3:思えば「万延元年のフットボール」か「個人的な体験」でも似たような放り出され方をした記憶がある。