哀しみを汚される哀しみ

marginalism2012-03-23

ワールド前にやっぱり見ておかなければならないと、ヴェンダース作品、3D、邦題のダサさという壁を乗り越えてなんとか『Pina』鑑賞のために映画館に行きました。
http://pina.gaga.ne.jp/
(音出ます)
基本線のノリとしては『東京画』と変わらないです。ヴェンダースが『東京物語』に憧れを抱いて笠智衆や小津組の撮影監督を使って小津風のローアングルで撮影してみたりもしたけどヴェンダースの自己満足でしかなくて、結局「僕の思い描いてた東京はなかった」で終わるのとほぼ一緒。ヴェンダースの手癖のいつもの甘ったるいセンチメンタリズムに彩られて、『東京物語』見ていない人には小津安さんが誤解されてしまう出来のドキュメンタリーだなと思ったのと一緒。ヴェンダースにかかれば小津安二郎の描く喪失もピナ・バウシュの描く喪失も一緒のものになってしまう。そしてそれは小津安二郎ピナ・バウシュの作品とは全く異なるものなのに、ヴェンダースの方が世界的な商業としては成功しているから「そういうものなんだな」と流通してしまって、それぞれのファンとしては害悪でしかない。小津のローアングルを鎌倉で再現してはしゃいでたヴェンダースと3Dという新しいおもちゃを手に入れてはしゃいでるヴェンダースも一緒。ピナの伝えてきた絶対的で圧倒的な「孤独」や「喪失」や「絶望」がヴェンダースには掴めていない。
ピナ・バウシュが送り続けてきた「私達は誰もが孤独である、だからこそ私達は孤独ではない」というメッセージの前段だけで立ち止まって「だから俺達傷ついてることに甘えてもいいよね」っていじけたポーズで止まっちゃってる、そんなヴェンダース節を覚悟して見に行ったら、もうピナ・バウシュ作品のテーマすら関係ない「ピナを喪って僕達悲しいね」っていう凡庸な喪失感にピナの描いてきた喪失が呑まれてしまっていつも以上に凡庸なものになっていた。ヴェンダースはいつだって痛みの先を見ようとしない。そこから先を描いてこそのピナ・バウシュなのに、「痛い痛い」って言ってるだけ。この人の映画どれもそう。そういうところが嫌いだ*1
ただ、『Pina』という映画を一方的に貶めることができないのは、ピナ・バウシュと一緒に闘ってきたヴッパタール舞踊団のダンサー達があまりにも真剣にこの映画に取り組んでいることも伝わってきたからです。彼ら彼女らの舞踊言語はやっぱりすごくて、単純に技術に注目して見たり舞踊の専門家とかが見ると充分楽しめるものになっていると思います。『東京画』も笠智衆がしっかり真面目に受け答えをしているがためにそこだけはとても輝いていて、罵ることをためらってしまうのとやっぱり同じなんですけど、『東京画』における笠智衆より『Pina』におけるヴッパタール舞踊団員の出てくる時間の方が断然多いものですから、ヴェンダースの下手打ってるところと団員のパフォーマンスを秤にかけるとなんとも歯切れが悪い感想になってしまう。
パンフレットを買ったら山本耀司が「あれだけ芸術レベルが高い舞踊団だと、ビジネス的にそんなに成功できるわけではない。だから互いに支え合い、犠牲を捧げ合うという、めったに成立しない先生と弟子の集団だったね。そういう姿を長い間ずっと見せてもらった。」と語っていたのだけど、まさにその様子がこのドキュメンタリーからすら伝わってきて、その痛ましさが陳腐な編集で陳腐なものにされていることが腹立たしくて、でも弟子達は頑張ってピナに捧げて踊っていて、それが伝わってくるだけに、という思考のループから抜けられなくなり消化不良を起こしました。
しかも『カフェ・ミュラー』はピナの役をピナが踊れないからあの役の説得力と存在感が全く別物になってしまっていたし(それは本当に仕方がないことで、代役を演じた人が何よりそれを痛感していて、でも明らかに別物なのは認めざるを得なくて、これが「人が死ぬということ」をヴェンダースの意図を越えて最も象徴していたシーンだったように思う)、『春の祭典』もジョセフィン・アン・エンディコットが指導の方に回ったらしくて踊ってないんですよね。ピナだけじゃなくてジョーアンもほとんどスクリーンに出てこない、多分団員一人一人にインタビューしてソロで即興なんかで踊らせるパートとラストシーンくらいにしか出てきてないと思う。ジョーアンが表にほぼ出てこなかったことの意味はまだ色々と考えてしまう。

それでも、それなりの困難が予想できているのに私を映画館まで突き動かした欲求は今季のペアの優勝候補サフチェンコ&ゾルコヴィーのフリーの『Pina』のサントラ使ったプログラムが、フィギュアスケートとしては非常にハイレベルなのはわかるんだけど、ピナ・バウシュを題材にしたならこのカップルの力だともっと彼女のテーマの「喪失」や「孤独」や「絶望」も徹底的に表現できただろうになんでこんなに薄っぺらくちょっとピナさんとこのダンス言語をお借りしますよ、程度でしかないんだろう?と不思議でしょうがなかったことで、その疑問は氷解したので、全部ヴェンダースのせいにして構わないと自分の中で落とし前はつけられたので、その点では満足です。あれはピナ・バウシュではなくあくまでもヴェンダースの映画の『Pina』をテーマにした作品なんですね。ところどころ「カフェ・ミュラー」や「フルムーン」みたいな動きは入ってるけど、なんでこんなに断片的なんだろうと思ってたら、映画でほんの断片しか使ってなくて、見所として扱っていなかったからでした。ほとんど団員の即興ソロが中心の作りだったから、直接何かの作品そのものみたいな動きが少ない意味がわかった。
Aliona SAVCHENKO Robin SZOLKOWY - GPF 2011 - Pairs LP
http://www.youtube.com/watch?v=t4a5FDDgtVg

改めてダンス言語としてのフィギュアスケート言語という視点で見ると、とてつもないポテンシャルを秘めていることはわかるので、このカップルでもこのカップルではなくてもいいので、ヴッパタール舞踊団のようなダンス言語を形としてなぞるだけではなく消化してその先へ突き抜けた「何か」が見たい。フィギュアスケートにはそれができるはずだ。商業的な成功は難しいのかもしれないけど、そこを追求していることが文化としての発展への道だ。
私、お正月にウィーンフィルニューイヤーコンサートを見ていたら挿入されるバレエ部分の演出が明らかにヴァーチュー&モイアーの『アダージェット』とゴルデーワ&グリンコフの『ヴォカリーズ』に着想を得ていることがわかるコリオグラフで驚いてたんです。バレエから借りてくるだけじゃなくてバレエに貸し出すものになってきたのかと。JSPORTSのどれかの放送の時に藤森さんが、パリ・オペラ座や英国ロイヤルバレエ(だったかな)の人と話す機会があったのだけどみんなフィギュアスケートへの興味がすごくてフィギュアスケートからアイデアを得ることもあるなんて言ってました、というようなことを語っていたので、ニューイヤーコンサートコリオグラファーはズエワ振り付けファンだと確信したんですけど、今、西洋のクラシカルな文化って西洋で危機的な過渡期を迎えてることがわかるんです。ウィーン少年合唱団パリ・オペラ座バレエ団の現状見てると。だからこそコンテンポラリーやフィギュアスケートのような間口の広いものにはチャンスなんじゃないかと思ってます。

http://www.nhk.or.jp/classic/club/
クラシック倶楽部の3/30放送分

ザ・ジョン・ケージ

<曲目>
1.4分33秒
2.ある風景の中で
3.危険な夜
4.居間の音楽
5.バリエーションズ6
6.One9(9乗)
7.0分00秒
(以上すべてジョン・ケージ作曲)

<出演>
ハープ:吉野 直子(2曲目)
プリペアド・ピアノ:一柳 慧
ダンス: 白井 剛(3曲目)
演奏:アンサンブル・ノマド、木ノ脇 道元、佐藤 洋嗣、甲斐 史子、宮本 典子(4曲目)
演奏:武蔵野美術大学 学生 島崎 隆輔、野上 勝己
宇治田 枝理、溝川 裕規、薄羽 涼彌、西 夏央(5曲目)
笙:宮田 まゆみ(6曲目)
解説:白石 美雪(音楽評論家/ジョン・ケージ研究家)

収録:2012年2月10日
NHKスタジオ

今の時期に一柳慧を引っ張り出してこんな新録してる取り組みはとても評価したい。1曲目と7曲目どうやって処理するのかとても楽しみ。演奏よく見たら武蔵野音楽大学じゃなくて武蔵野美術大学だったよ。

あと、ピナ・バウシュという人となりについてのドキュメンタリーを見るなら『ピナ・バウシュ 夢の教室』こっちの方を断然おすすめします。10代と真剣に向き合うピナの姿にもティーンエイジャーが変わって行く姿にも心打たれる。これを撮った女性監督とピナの距離が本当に近くて、近いから撮れたことだというのもわかる。私、10代の女の子のメイクをしている女の人にピナの片腕の女の人が「10分も踊れば天然の素敵なチークが浮かび上がってくるんだからそんなにいらないわ」って言ってるところがとても好きです。すごく女性が仕切ってる集団のいい所が出ていると思う。そして、この集団にいる男性は自分の役どころが暴力を振るう側、加害者側になることが多いのに、ピナはそういうところを徹底的に暴いて世間に晒すのに、それを受け入れて演じて踊っていられることに強さと優しさを感じて泣けることもある。
http://www.pina-yume.com/
(やっぱり音出ます)
http://www.pina-yume.com/trailer.html
(いっそのことトレイラーでしっかり見て!)

*1:パリ、テキサス』はちょっと例外なのだけど、あれはナスターシャ・キンスキーという存在が化学反応を起こし映画としては幸福な事故が起こっているからその先を伝えることができたためで、あくまでもヴェンダースの力ではない