Smells like 90's spirit

marginalism2015-05-03

 ローザスの『ドラミング』観に行ったのいつだ……?アフタートークがあった日だから4/17かな……?拍手しすぎて腱鞘炎こじらせて、なかなかタイピングも難しかったので、今更ながらまとめておきます。

 スティーヴ・ライヒ音源を使ったコンテンポラリーダンスをそれまで生でいくつか観てきていて、その度に消化不良を起こしていて、ローザスまで生で観てそういう気分になったらどうしよう、とか心配してどんよりしつつ会場向かったんですけど、どんよりしすぎたせいなのかなんなのか、池袋西口東京芸術劇場までの道筋を迷ったのがショックでした。大学4年間を西武池袋線沿線で過ごして、ちょっと時間が空くとすぐ電車で3駅の池袋へ駆けつけて俺の庭!レベルで遊んでいたはずなのに、当時住んでいた家からトキワ荘跡地経由で自転車でも行ってたはずなのに、土地勘すっかりリセットされてた。西口と東口を間違ったわけでもないのに、駅前の芸術劇場までを迷うとか何が起こったのかよくわからなかった。
 そして会場入ったらものすごい行列ができていて、「日劇7周り半」という単語が頭をよぎる。当日チケット受け取りだったので、まっすぐ行っていいのか躊躇しつつチケットボックスに向かったら、あれは当日券の列だと教えてもらった。ダンス公演の当日券であんなに並んでるの見たことなかったから驚いた。ローザスってそういう存在なんですね。入場の時にぶつかったタバコの臭いがしみた背広のおじさんに競馬場に行った時みたいに舌打ちされて、わあーこういう層も来るんだーってことにも驚きました。ここはフランス映画を観ていて上映中に痴漢に遭う街だったと思い出しました。席に座ったら、隣に小学校低学年くらいの女の子がいて、ああお母さん子供連れてまで楽しみにしてたのね、これてよかったね!お嬢さんもバレエあたり習ってるのかな?きっといい経験になるね!と思ってたら反対側の隣の男性が嫌そうな顔してその母娘見てるし、正直、舞台が始まるまでのコンディションは最悪に近かったです。あの子はお母さんの言うことよく聞いててぐずりもしなかったから、嫌そうな目で見てる男性の方が迷惑行為だった。

 ローザスの『ドラミング』を私はYouTubeでしか見たことがなかったので、始まり方を把握していなかったのですが、ダンサーがバラバラとなんとなく持ち場について集まって、音楽が鳴るのを待つんですね。それはダンサーではなくオーケストラボックスに入ってチューニングしたり隣の人と喋ったりする楽団員のようなざっくばらんさで、気負いのない導入部だなと好感を持てました。一旦音が鳴り始めると空気が変わるのも懐かしかったです。

 なんというか全般的に懐かしかったです。GINZAの付録の「おとなのオリーブ」にローザスのことが書かれていて「率いるのはピナ・バウシュの後継と言われる振付家アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル。その強くてピュアな世界観は、まさに『オリーブ』。」とか紹介されてたんだけど、いや、ピナの後継ってなんか違うし、ピナは『オリーブ』だと思うけどアンヌ・テレサの世界観って『オリーブ』っていうには力強すぎて柔軟性に欠けてないか?などと思ってたんです。でも生で観たら、全くもって『オリーブ』でした、すみませんでした。これもっと古い作品かと思ってたんだけど、初演が1998年なんですよね。だから、ドリス・ヴァン・ノッテンの衣装もオリーブぽかった。ドリス・ヴァン・ノッテンは買えなかったけど、大学生当時の私がこんな感じのワンピースにカーディガンを合わせた格好をよくしてたのを思い出した。いつの間にこういう格好しなくなっていたんだろう、私こういうファッションの人だった、こういう格好でこの辺りを飛び跳ねてた人だった、そう思って若いダンサーたちをまばゆく見ていた。
 一人ずつ、大縄跳びに順番に入っていくような緊張感で踊りに加わってゆく。そして音の限界ギリギリまで自由に自分を表現している。ライヒの楽譜の音符に示される範囲からは決して外れないんだけど、そのギリギリまで自由だ。それが音と踊りの厚みを増す。これは日本というか儒教文化圏のカンパニーにはできないことだろうなと思った。個を大事にする西洋のカンパニーに加わっている東洋人が求められてそれを表現することはできるけど、儒教文化圏でのクリエイションで群舞になってこれだけ自由に振る舞えるかといったら、まずできないだろう。どうしても萎縮してしまう部分は出てきてしまう。規律を乱さないことを第一に考えて目上の人に合わせてしまう。その一音の中でどれだけ自由に振る舞えるかなんて考えもつかない。それが文化として染み付いているから。それは悪いことばかりではないけど、こういう『ドラミング』を作るのは無理だろうなと思った。
 以前、私がBBLの『ボレロ』を観に行った日のメロディがズアナバールで、有色人種のたおやかな女性メロディがマッチョでルードな白人男性たちのリズムに襲われるような倒錯的な世界観になっていて、ああこういう『ボレロ』もあるんだと、メロディって強く君臨するような人だけじゃないんだ、ダンサーによって全く変わってしまうものなんだと驚いたことがありました。それに対してギエムがメロディ、東京バレエ団の男性ダンサーがリズムの時は決然と女王のメロディが絶対君臨してそれにストイックなリズムがひたすら従順に統治されているといった様子で、ラストの印象も全く違って、ああこれきっとギエムとBBLの組み合わせだったら喧嘩になって舞台がまとまらなさそうだから、ギエムのリズムは日本人が合ってるんだな、どっちも面白いなと素直に感心しました。メロディがとかく注目されがちなベジャールの『ボレロ』でもリズムを担うダンサーも実はとても重要で、シンプルな衣装、シンプルな舞台装置だからこそ、リズムであろうとも一人一人の力量や個性にかかるものは大きく、また一人一人の個性のまとめ方も大きくて、そのまとめ方が西洋と東洋では全く変わってしまうことを目の当たりにして面白かった。オーケストラでもサイトウキネンの個性ってアジア人ならではの細やかさやまとまり方っていうのが西洋音楽の中では際立っているから、ライヒのドラミングもきっと東洋人だけで演奏したら今まで聴いたものとまた違うものが出来上がるはずだ。日本人演奏家なんかがソリストとして振りまく個性を集団の中の一人になるとある程度抑えがちになってしまうのも、あまり意識してやっていないはずだから、儒教文化圏でこの音楽へアプローチする時に気をつけなければならないこともわかったように思う。
 ローザスの『ドラミング』は『ローザスのドラミング』として完成し尽くされているんだけど、『ベジャールボレロ』ほど圧倒的ではないので、まだ違うアプローチから違う完成形を提示する余地はあるように思えた。90年代の空気をたっぷり含んだ『ドラミング』は青春プレイバックを見せられているようで、終わり方もまた90年代っぽいな、ああいう風な締め方ってとってもあの頃多かったような記憶があって、メタの使い方が爽快で楽しかったんだけど、まだ発見されていないこれと違う終わり方もあるはずで、『ボレロ』ではなく『春の祭典』みたいに完成形がいくつもあってどれも楽しい、みたいな作品であってほしいなと思う。『ドラミング』まだ掘り尽くされていない。ローザスの見せる一面は完成されてるけど、他の五面が揃ってないルービックキューブみたい。

 ちなみにアフタートークで初演メンバーの池田扶美代さんが「ノートをとってて、あそこは危ない、いつか事故を起こす、って思ったところを言わないでおくか、明日早くきて伝えるか今も迷ってる」みたいなことを言っていて、その気持ちすごくわかる……と思いました。彼ら彼女らの作品だからそこは口出しせずにあえて見守るか、でもやっぱり事故が起きそうな場所は指摘した方がいいのか、って指導する立場になると、匙加減は常に迷う。とあるライターの人が新人編集者と組む時はわかっていても何も言わずに一緒に失敗することに付き合う、そうしないと相手が成長しないから、と話していたのも思い出した。1990年代にあんな若者だった私も2010年代には若者を指導する立場に回ることもあるので、池田扶美代さんに共感すると共に、池田扶美代さんの言ってることがよく理解できてない若者たちをとても愛おしく思った。

「おとなのオリーブ」付録号↓

GINZA(ギンザ) 2015年 04 月号 [雑誌]

GINZA(ギンザ) 2015年 04 月号 [雑誌]