新緑の光線

marginalism2015-05-18

 昨日の夜、会うたびに山下清度を増している画家の友人が自転車で通りかかったと近所にいきなり来たので、ベンチに座って話し込んでいたところ、そういえば私、高野文子の原画を観に「【企画展】漫画『ドミトリーともきんす』の住人 牧野富太郎」まで行ったことについてまとめてないなと気づいたので書き留めておきます。

『ドミトリーともきんす』特設サイト【イベント情報】牧野記念庭園で企画展スタート!→http://dormitory-tomokins.tumblr.com/post/116732324389
牧野記念庭園→http://www.makinoteien.jp/01-schedule/index.html

 『ドミトリーともきんす』の住人のうち、湯川秀樹朝永振一郎ノーベル賞受賞者として知っていて子供用の伝記も読んでいましたし、中谷宇吉郎ノーベル賞候補だった雪博士として私の故郷では大変尊敬されており、やっぱり学校の図書室で地元の新聞社が出したような本を読んでいた、私の知識の中にフルネームで既にいる偉人たちでした。ただ一人、牧野富太郎だけは、なんとなく名前知っているような知らないようなうすらぼんやりした存在で、湯川博士や朝永博士や中谷博士がこういうキャラクターになるんだ!というその元ネタがない、高野文子の描く「マキノ君」が先に頭の中に根付き生きはじめた人です。

 なので、実在人物としての牧野富太郎をよく把握せず、牧野記念庭園に行ったら、ものすごく「マキノ君の庭」のイメージにぴったりで、牧野富太郎だろうがマキノ君だろうがどうでもよくなりました。常設の方のマキノ君の年表見てたら植物が好きすぎて学校も行かずに独学で勉強したりイラスト描いてるうちにその道の学者の人とコネクションができて新種発見してその分野の学者でもある時の天皇陛下から表彰されるってなんかどっかでこういう話最近あったような……?あ!さかなクンだ!と繋がったので、今生きてたらタンポポの綿帽子でもかぶってテレビに出てたんだと思うし、さかなクンが亡くなったあとの自宅の池や水槽なんかを自治体に寄付してちょっとした水族館みたいなものができたらマキノ君の庭みたいになるんだと思う。そして私はそういう場所をとても好ましく思うはずだ。
 マキノ君の庭は今まで行ったどの植物園より居心地が良かった。マキノ君の晩年の宇宙が無料開放されて憩いの場になっているのはとても素敵だ。そんな場所でGW明け最初の開館日に高野文子の原画に会えるのは最高に素敵だ。そんな気持ちで牧野富太郎高野文子二人展と化していた企画展の部屋に入って原画と向き合ったら、非常に疲れた。
 高野文子の原画のテンションがとにかく半端ない。高野文子の線ってもうここにしか収まらないというところにだけしっかり引かれている印象があって、その線をすっと見つけて筆を入れてるのかと思ったら、その線にたどり着くまでの格闘の跡が泥臭いまでに伝わってくる。岡崎京子の原画は迷いのない線の勢いが美しかったんだけど、それと対極でした。岡崎京子のスピードなら多作になれるだろうし、高野文子のスピードなら寡作やむなしだなと、漫画の原画見ると線のスピードってこんなにわかるものだったかな?と少し驚くくらい違いました。ほこり一つたてただけで全ての線が止まってほこりの原因を探るための捜索活動が神経質に繰り返されていそうな緊張感に耐えられず息苦しくなって、途中で一旦企画展の部屋から抜けてクールダウンした。座った場所の窓越しにある植物が美しくてゆるやかに構えていて、高校時代に図書室の衝立がある一人がけの机の席から見える一本の桜の木を思い出した。
 私はひっそりとした場所に一本だけ植えられている割には堂々としている桜の木が大好きで、弱ったらいつもその木を見て何も言わずに会話をしていた。私が卒業してすぐ、その場所に中学校の校舎を建てるので伐採されてしまった今はもう存在していない木。私が卒業するまではなんとか持ちこたえて支えてくれた優しい木。ここの庭園の植物たちはあの木によく似ている。そう思って、部屋に戻ってすぐのところに置かれている『黄色い本』を読み始めた。そうやって高野文子の原画と改めて対峙するために気持ち作っていった。実ッコちゃんは私、実ッコちゃんも私、そう言い聞かせて実ッコちゃんになりきって『ドミトリーともきんす』原画に再挑戦してなんとか最後までたどり着いたよ。
 岡崎京子展に行って、図録を読んで、私は肩の荷を下ろしたんです。岡崎京子が作品を発表できなくなってからその場所に座るものがいなかった。だから、それは自分自身で埋めなきゃならないんだって、ものすごく気を張ってた。でも私、岡崎京子みたいに多作になれるような人間ではないので、それはとても無理をしていることだった。私が気張らなくてもそれができる人がいるじゃん、って今日マチ子リバーズ・エッジ2015』を読んでわかってやっと楽になったんです。そして岡崎京子高野文子の原画を観る機会が立て続けにあって、サカエちゃんも私だけど実ッコちゃんも私だから、自分の中の勢いと緊張感のバランスをうまく取れるようにしようと思った。

 他にこの原画展に行った友人*1とやりとりしていて気づいたんだけど、せっかく作ったポストカードをその場で売らずに駅前の写真屋さんで買ってください、というアナウンスが出ているくらいに庭園内のどこにもお金を取るシステムがないんです。会場で本やポストカード売ればいいのにもったいない、と友人は言ってたけども、私はマキノ君と高野文子の二人展の敷地内でそういったお金のやりとりの場があることはこの二人にふさわしくない、ストイックだけど妥当な姿勢だなと思いました。あえてそうしない美学がそこにはあった。なので帰りにポストカードを売っているお店にも行ったんだけど、やっぱり止めてその代わりに近くの花屋で芍薬を買って帰った。その方があの人たちにふさわしい振る舞いのような気がして。
 友人の名がついた植物と私の名がついた植物が庭園で並んで植わっていたので、どちらが正しいとかではなく、隣り合っていても違う花が咲くようにたまたま違うものを受け取ったり栄養にしているだけなんだと思います。そして違ったままその場で共生していていいんだと思います。

ドミトリーともきんす

ドミトリーともきんす

黄色い本 (KCデラックス)

黄色い本 (KCデラックス)

*1:昨日会った人とは別人