Les enfants du Paradis/戦争と一人の少女

marginalism2015-06-30


 Noism1の近代童話劇vol.1『箱入り娘』をなんとなく真ん中らへんの日がいいかな、と思って水曜日のKAAT公演で観ました。
 私、舞台装置で本が置いてあるとしげしげと見てしまって、『カルメン』の時は学者の机の周りに古い洋書が並べられてるのを、そこに役者がいるのを気にせずに、むしろ客が接近したらどういう反応するのかな?と仕掛けるくらいの気持ちで何が置いてあるのかチェックしたら、スピノザがあったのくらいしか覚えてないんですけど(キリル文字の本があって、一生懸命解読してみて、あ、できた!と喜んだらそれがなんと書いてあったのか忘れた)、今回のNe(e)tの部屋には『最終兵器彼女』と『ピューと吹く!ジャガー』が置いてあったのを目視確認できた。Ne(e)tの部屋が私基準では綺麗すぎて片付けられない人間としては少し腹が立ちましたけど、あの漫画群がメンバー私物だと思うと愛おしい。部活みたいに回し読みしたりするのかなって、部室にそういうものを持ち込みがちな人間だったので少し懐かしい匂いがした。漫画回しておきながら自分はテストに出るスピノザ勉強してたりしたわけですが。
 いつもと違うスタジオ公演だし、なんかスピリッツとかジャンプで連載してた漫画の単行本置いてあるし、一体何が始まるんです?と思いながらチラシ見てたらNoism15-16シーズンのスケジュールに脚本:平田オリザの名前見つけて目を疑った。あんな部室から東京に飛び出して出会った大学の友達が学生時代に平田オリザワークショップ行ってたなと思って連絡したら、やっぱり驚いてて、でもあまりにもNoismNoism私がうるさかったからか興味あると言ってくれたので、再演の『カルメン』一緒に行こうという話になった。大学の時に一緒に橋口亮輔渚のシンドバッド』を観に行ったら、私が自分に浜崎あゆみの役(境遇がほぼ一緒)を引き寄せすぎて映画館で倒れたのを介抱してくれたいい友達です。
 本題に入らずうだうだ思い出話書いているように見えるのは、「箱入り娘」として育てられたはいいけれど、箱に空気穴がなくて窒息しかけて箱を蹴破って館を飛び出て東京に亡命してきたからこそ今があってこの作品を楽しめた、という自分のヒストリーが観終わったあとに誇らしくなったからです。
 物心ついた頃には本を読んでいました。物心つかない頃から本を読んでいたらしいです。なので正確に言うと物心ついた頃には絵がついてない本が読みたいと思って文字を必死に覚えていました。幼稚園の時に小学3、4年生以上向けの本を読めて嬉しくてどんどんチャレンジしてたことがその頃の一番の思い出です。インターネットがない時代、本は唯一の空気穴でした。生き延びるために大人の本がとにかく一刻も早く読みたかった私にとって、ずっと読むのも書くのも一番難しいと思っているのは、絵本・童話・児童文学なので、Noismの「近代童話劇」という挑戦は随分と厄介なところに行ったな、と感じましたし、ここに焦点を絞った狙いも分かる気がしました。
 こういったジャンルって徹底的に地力が試されるんです。ごまかすことができないんです。子供の反応って残酷なんです。自分基準で面白くなければすぐ飽きちゃって離れていくから。あんまり深読みとかしてくれないから。私が安住することを許されなかった大地で子供たちは絵本を、ジュブナイルを読みます。そういう子たちに世界観の呈示をする時には、基礎の基礎がしっかり出来上がってないと無理なんです。不安定なものを幸福な子供たちは受け入れないんです。これは徹底的にカンパニー全体を鍛えるためのシリーズなんだと私は理解しました。客との距離が近い、公演回数が多い、子供限定・老人限定の公演もある、それらは全て、ごまかさず徹底的に開いていかなければ相手に受け入れてもらえないシチュエーションです。そこでどんな人にも充分楽しんでもらえる作品を出せるか問われるのは非常にシビアです。あの距離で人数だと飽きてる人なんかすぐわかる、でもそういった緊張感を押し付けたら観客が楽しめない、自分たちがまず徹底的に楽しまないと伝わらない。そしてそのハードルをクリアしてみせたカンパニーの全員を私は心から讃えてました。子供の頃だったら楽しめたかどうかわからない、今観れて良かった。そう思って、自分の子供時代を振り返って、この作品を楽しめる要素があったか検討しました。
 井関佐和子の衣装が『星の銀貨』の挿絵みたいだった、井関佐和子(箱入り娘)のライトモチーフの音がクラリネットだった。私が子供だった頃、合唱のピアノ伴奏をするのが嫌で嫌でたまらなくてピアノを習っている子が呼び出される度に逃げ回っていたけど、あれはピアノ伴奏者が主役になってしまう舞台だからで、本来は私は伴奏者として生きていたい人間でした。子供の頃から悪目立ちしてしまうので、ピアノ伴奏から逃げ回ったところでどうやっても舞台に引きずり出されてしまっていたのですが、それは本意ではありませんでした。密かな夢はオーケストラボックスに入ってバレエの伴奏をすることでしたし、そこに花があるならその美しさを際立たせるための葉として生きたかったですし、なのに無理やり花を押し付けられてはそこから蹴落とされての連続で生きることが面倒でした。そういう時に『星の銀貨』や『人魚姫』は私によりそってくれる数少ない童話でした。星の銀貨の主人公みたいな衣装を着ている女の人が自分が受け入れてる作曲家の曲で自分の楽器に合わせて踊ってくれてるなら私の夢は叶ったんじゃないかって、自分が演奏しているわけでもないのにすっと腑に落ちたので、これは子供の私にもそっと置いておくと受け入れられるものじゃないかという判断が体に広がった瞬間に少し涙ぐみました。


 最近、これと似たような感覚に陥ったことがもう一つあって、今日マチ子『ぱらいそ』を読んだ時のことです。これは今日マチ子の戦争三部作で初めて「普通」の少女が主役になった作品です。私には「普通」がずっとよくわかりません。物心ついた頃から「普通であればいい」「普通じゃない」と言われ続けてきましたが、何が「普通」なのか誰も教えてくれませんでした。わからない「普通」を自分がなんとか守れているか、そのことにずっと怯えていました。「普通」は常に揺れ動いているのに何も説明されず、押し付けられることに疑問を持っても受け止めてくれる相手がいませんでした。私が必死に本を読んでいたのは生きるために「普通」を知りたかったからですが、本に出てくる主人公は大抵「普通」ではないので、「普通」ではなくても生きられることに慰められはしましたが、「普通」はわからずじまいでした。
 「普通」ではない私は今はもう戦時下に生きていると思っていますが、とりあえず「普通」の世の中は戦争前夜と捉えている人はそれなりにいますけど、まだ始まってると認識されてはいません。

 2009年から戦争と少女を題材にした作品を描き続けている今日さんだが、近年の情勢のせいか、読者の反応が変わりつつあることを実感している。「以前は『昔のこと』と捉えられていたけれど、最近は『これから起こりうること』として読まれている。ちょっと不思議な感じですね」

http://www.47news.jp/CN/201506/CN2015061501001552.html

 今日マチ子本人が感じている読まれ方からもそれは受け取れて、「普通」の読者の反応は『もう起こり始めていること』ではなくて『これから起こりうること』なんです。
 私はめったにコンビニで食料品を買うことがないんですが、以前、たまたま調理パンのコーナーに入り込んだら焼きそばパンの大きさが私が知っている2/3程度しかなくて、なおかつ値上がりしていたことに驚きました。それを見た瞬間に「贅沢は敵だ!」「欲しがりません勝つまでは!」というスローガンが頭をよぎり、日常が戦争に侵食され始めていると感じ取りました。私の感性はそれを否定することができませんでした。なので、『ぱらいそ』の冒頭部分にこういった有名なスローガンが出てきた時に背筋が寒くなりました。その世界観を生きている人々のほとんどが、まだその状態を少々窮屈ではあるけれど「普通」だと思い込んでいる導入部です。そこで「普通」とされない女の子は主人公ではありません。これは覚悟のいることだと思いました。
 戦争三部作のうち『COCOON』は王子様の繭に包まれたお姫様のお話でしたし、『アノネ、』は世界で最も知られているユダヤ人少女がモチーフのお話なので説明するまでもなく、その作品に対して何より雄弁だったのは後編のオビに入っていたコメントがまだ女優としての自我も色も持っていない頃の前田敦子だったことです。あっちゃんのコメントは何かを言っているようで何も言っていない。その言葉の奥に無限の余白が広がっていて、人々を熱狂的に惹きつけたのは、本人が何も言ってもそういった真空状態の余白が揺るがなかったからこそだ。人は余白があると落ち着かなくなりそこを埋めたくなる性分を持っていて「あっちゃん」というキャンバスが提供する異常さこそが「アイドル」だった。それはアンネ(花子)も共通して持ち合わせているものだ。世界中に広まるにはそれだけの余白がないと語り甲斐を得られない。「アイドルの悲劇的な生涯」は「普通」の人の大好物だ。
 この流れで行くと『ぱらいそ』の主人公はユーカリではなくミルラになるはずだった。ミルラが持つ「欺瞞的な白」は決して揺るがない。自分を白く保つためには本質的に何人たりとも傷つけることを厭わない。カトリックにおける『無原罪のマリア』という欺瞞信仰を貫くようにミルラは天使になる。今日マチ子の他の作品では主人公になるべきキャラクターはこのミルラだった。でも、『ぱらいそ』ではそうしなかった。それなら次に主人公にふさわしいのはドラマチックな背景を持つセリだ。半島出身で体を売る「偽悪的な黒」に満ち溢れた少女。私個人としてはセリが感情移入しやすいですし、こういうキャラクターが描きやすいんだとも思います。が、やっぱりカトリックの人気者である『マグダラのマリア』を背負わせられているようなセリは私の高校時代までの口癖を叫びながらマグダラとしての役割を全うしてぱらいそへ旅立った。セリが旅立った日は聖母被昇天の祝日だから、ミルラが手を引いてぱらいそへ連れて行ってくれたのだろう。聖母にもマグダラにも染まれないユーカリは「普通」の迷える子羊だ。どっちにも染まる覚悟ができなくて無色透明になろうと渇望して揺れ続ける。「普通」の少女を、「普通」の少女も、主人公として描ける今日マチ子は作家としてとても強い。「普通」を真ん中に据えて話を動かすのはとても難しいのに、それを遂行し「普通」が一番強いことだと最後に伝えられる人には勝てないなと思う。
 ユーカリという人物に対してはあまり作りこみせず、結構素直に今日マチ子自身を投影しているなと思ったのは、彼女がカトリックの学校ではなくプロテスタントの学校出身であることや右利きであるだろうことがユーカリの行動から読み取れるからです。

 わたしは、中学高校とキリスト教の学校に通ったこともあり、教会が好きだ。と同時に、中高で与えられた大きな謎がキリスト教と、戦争だ。毎日礼拝をし、聖書を読んでいたわりにはキリスト教が何なのか、わかってはいないのだけど(まあ半分は居眠りしていたし……)、なにかしらの影響を受けているとは思う。

http://juicyfruit.exblog.jp/21349217/

 これは私にも共通した感覚なのだけど、今日マチ子カトリックの影響を受けた人であったら、右手にはもっと簡単に「良いこと」の意味を付加できる。カトリックではとにかく十字を切る。毎朝毎晩十字を切る。常に右手を使って。毎日、登校後と下校前のお祈りの呼びかけと、一週間全校放送の朝礼の担当をすればいいだけで、宗教的意味合いから目をそらせば負担が少ないという理由で典礼委員をやっていると、信者でもないのにとにかく何かあると十字を切る習慣が体に残る。ましてや人の生死に関わる局面でそれを描写しないことはあり得ない。何も考えずに勝手に体がそう動く。なのに『ぱらいそ』ではどこにもそんな描写はなかった。そしてキリスト教自体が右手礼賛左手迫害の宗教であり、元が左利きなのに右を使えと「矯正」された私にとって左手は「抑圧された本来の利き手」、右手は「使うことを強制された表面的な偽の利き手」なので、良いことも悪いこともぜんぶ右手にかぶせることに違和感があって、表面的に良いことをなすのが右手、本能的にどうしようもなく衝動で悪いことを働いてしまうのが左手、という描写にしないと落ち着かない。最終的に右手の支配から左手が解放されて戦争が終わる、という落とし込み方をすると思う。でもそれは「普通」じゃない。あくまでも左手は右手のスペアでしかない、という右利きの感覚が「普通」なんだ、というのは、右と左が引き裂かれてどちらも満足に使えず、お箸を持つ手とお茶碗を持つ手がどっちがどっちなのかわからず、わからないということすらわかってもらえないままその時期を過ぎ、結果、未だに右と左が瞬時に判断できない不器用な私にとっては新鮮で衝撃的な事実だった。気負わず描いてくれたからこそ見えるものもある。右利きの感性を私は『ぱらいそ』で初めて知った。自分の世界が統計として少数派なのは知っていても、それがどうおかしいのかわかっていなかった。「普通」の世界を教えてくれた本に初めて出会った気がした。
 「普通」は強い。「普通」は負けない。「普通」ではない人間に嫌味なく「普通」を伝えられる才能は稀有だ。私は「普通」を描けず、「普通」を描ける人がいてこそ私は初めて成り立つものだと思ってきたから、こういう人がいるだけでほっとするのと同時に「普通」を一手に引き受ける人の荷物の重さについても考える。それがどういうものなのか私にはよくわからないけど、でも、一緒に戦える人だし、一緒に戦いたいなと思った。十字を切って手を握って。

渚のシンドバッド [DVD]

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