20歳、青森の夏。25歳、広州の夏。

marginalism2015-08-29


 8月の初旬に青森の祖父母のところへ行ってきました。東京から青森の奥地の祖父母の家まで3時間ちょっとで行けて、新幹線の威力を思い知ったのと同時に、幼稚園児の頃だったらまだ青函連絡船津軽海峡渡って揺られて酔ってる最中で、吐き気を催して紙袋持ちながら「だから青森行くの嫌だ」と海の上でぐずってる時間帯かと思うと時空が歪んできました。
 祖父母の家がどれだけ田舎であっても新幹線で行けるようなところだったら私はあれほど父の田舎を忌み嫌うことはなかったんだろうか。青函トンネルが開通して船から解放されて気分的にはかなり楽になったのは小学生の時でしたが、それでも祖父母の住む町に鉄道が通ってなかったので青森駅着いてからの道のりが更に難儀なのは同様で、やっぱり疲弊してしまい、孫がやってくると待ち構えて出迎えてくれる祖父母に対して毎回随分ひどい態度だったような気がします。海を挟んでいるとはいえ隣の県で距離的にはそれほど遠くないのに嫌がらせのような一日がかりの遠回り移動になるのを不思議に思って「なんでここには汽車がこないの?」と祖母に尋ねたら「昔、線路を敷いたら疫病が入ってくる、と町の人が反対したから」という話を聞かされ、あまりの閉鎖性に息苦しくなったものです。とにかく何もないため新幹線の用地買い占めも難しくないので『新幹線建設予定地』と錆びた看板だけが建っていた場所に本当に新幹線が通って、しかも祖父母が存命で新幹線に乗って会いに行けるということを昭和の小学生の私に教えても絶対信じない。新幹線降りてタクシーで10分で行ける距離になるとか意味がわからない。が、新幹線の駅からタクシーに乗って5分もしないうちに未舗装の道路になるあたりは私がよく知っている祖父母の住む田舎だ。新幹線の駅から車で5分の距離がそんなことになってるというのも不思議になるけど、元から磁場が狂って抜け出せない森のようなところなので、もうぐちゃぐちゃ考えないことにしました。
 
 今年の夏は「戦後70年」とやたら喧しく、去年の原爆忌に「来年は戦後70年の節目であります」とか言って文化祭前夜祭レベルの扱いしかしていなかったのも納得するほどでしたが8月に祖父母の家に行くとなると意識せざるを得なく、NHKアーカイブスで拾った玉音放送のページをチェックしてから行きました。そういえば8月15日に外地にいたはずの祖父はこれを聞いたのかな?と気になり、それ以上の深い意味もなく。

 祖父母の家に一番寄り付かない孫が一人でふらっとやってきたので、95歳と90歳の歓待はこちらが申し訳なくなるほどで、あれ?もしかして舅や姑に異常に気を遣う母がいなければもっとおじいちゃんおばあちゃんと仲良く距離を縮めることができたのかな?って目にひっついてた氷が剥げ落ちたような感覚になりました。私がこの家で萎縮してたのって親のせいか!と、自分の親ではなくNYから帰省中の叔母と祖父母と過ごしてわかりました。長男と長男の嫁ではなく、代わりに末っ子気質の叔母がいると、ものすごくこちらも伸び伸びできる!なんだこれ!って、ちょっと青森にごめんなさいしました。悪かったのはアクセス難易度の高さとそこに行く道中で機嫌が悪くなる両親だったことに気づいた。この二つがなければひたすら気が抜けるだけの田舎だった。
 気付けばそんな田舎の台所で祖母と叔母と女子会のようなノリで喋っていて、男の人はいくつになっても少年の心を持つとか言い張るけど女の人もいくつになっても少女の心は持ち続けているんだと思いました。違うのは、男の人は少年の土台に超合金ロボットみたいに色んな部品を装着していくんだけど、女の人は少女の上に色んなレイヤーを重ねていくことです。そして、場の空気によってレイヤーを使い分ける。それを目の当たりにしました。
 女子会の場が温まったところで戦争の話を切り出してみたんです。その時、目の前にいる90歳の祖母が少女になる姿を見ました。祖母が語る戦争は、間に母が挟まっている時は「おばあちゃんの昔話」だったんですが、常に目の前にいる人を姑と固定した認識で接する母の傘から解放されると、「おばあちゃん」は「少女」になってました。「少女」というか、もっと正確に言いますと『わたしが一番きれいだったとき』の感性を共有している若い女性になっていました。少女であった自分を振り返る若い女性でした。あとで調べたら茨木のり子と祖母がほぼ同い年だとわかったので、眼前にいきなり茨木のり子の世界が拓けてしまったと感じたのは間違いではなかったです。玉音放送の日はどんな感じだったのか訊いてみたら、「ラジオの性能が悪くて何を言ってるんだかさっぱりわからなかった」と言うのでiPhoneを取り出してNHKアーカイブスにアクセスして音を流してみたところ「これはよく聞こえる!あの時は何言ってるんだか全然わからなかったのに、これならわかる!」と無邪気に興奮して私のiPhoneを手にして何度も聞き返してました。その時のおばあちゃんは好きな音楽を聴いてる学校の同級生みたいに見えました。もう、その場にいた全員が実年齢ではなく、楽しそうに玉音放送を聞いているおばあちゃんの気持ちと同じ年齢の女の子になっていました。

 私は昔から戦争体験話を読んだり聞くのが好きな方で「祖父母から戦争体験を聞く」みたいな夏休みの宿題が出る人は羨ましいなと思っていましたが、「インターネットにアップされた玉音放送を楽しそうに聞く祖母」というのは、「おばあちゃんの戦争物語」の枠をはみ出ていて、なんとなく違和感があって困惑してきたので、祖父にも戦争の話を聞いてみました。


 祖父のテンションは祖母とだいぶ様相が異なるものでした。『わたしが一番きれいだったとき』は送り出す側、銃後の守りという戦地を体験していない人間の感覚です。送り出された側、戦地を体験している人間は突然饒舌になったり無口になったり、95歳になっても全然気持ちにケリがついてない。祖父の口から出てくる地名をiPhoneで検索してwikipediaの項目クリックして「ここ?」と見せたら、びっくりして「これはなんだ!?」ってひみつ道具を見たドラえもんのび太の周囲の大人みたいになってるんだけど、びっくりした後はその道具について追究するよりそこに書かれてることや地図に見入ってたので、話を聞く資料としてそれほどノイズになるわけでもなく役目は果たしてました。
 祖父の戦争の足取りをまとめると、満州ソ連の国境(マンチュウリと言っていたので満州里というところのようです)に最初飛ばされて、そこから南方にどんどん下っていって、途中沖縄戦の助けに行くとかで金門島あたりまで行くけど沖縄陥落で香港に戻って、そこから広州に移動したところで終戦だったみたいで、その直後、国共内戦のために野砲を使いたい支那人(国民党陣営か共産党陣営かわからず)にご飯をもらう代わりに武器の使い方を教えてから長崎あたりに引き揚げてきたということらしいです。満ソ国境から香港って相当距離あるよね?何年くらい戦争行ってたの?と思ったところ8年弱くらいらしくて、あと数ヶ月兵隊行ってたら軍人恩給もらえたのにほんのちょっと足りなかったとのことで、8年弱?って少し考えてしまったんですけど、戦後の教科書で育った私は「戦争」というのは真珠湾攻撃から玉音放送までだと思ってたんですが、日本ってその前からずっと満州事変やら支那事変やらで戦闘状態にあったんですよね。
 祖父の8年弱ということにされている戦争体験は、玉音放送も敗戦も知らず、それを伝えにきた米兵撃ち落として、初めて敵を討ち取ったとはしゃいでいたらアメリカにめちゃくちゃ怒られたとかいう時期が加算されてるのかどうなのかはわからないです。

 天皇陛下から敗戦を知らされなかったおじいちゃんもおばあちゃんみたいにはしゃぐのかな?と思って玉音放送流してみたら、おじいちゃんはほぼ無反応でした。少なくとも表面的には、聞いていないものに対しては思い入れの持ちようなどないという様子でした。おじいちゃんの戦争体験の話は断片的でしかなくて、おばあちゃんの話のようなまとまりがありません。感情としてもまとまりがないのでしょう。結局一番印象に残るのは「もう戦争のことは忘れるようにしてるんだ」とか「戦は嫌だ」とかぽつんと呻くように出てくる言葉でした。鶴見俊輔が「戦争から戻ってきた兵隊は何も話さないんだ。だから戦後の日本には無数の断絶があった。そんな家庭が無数にあった」みたいなことを言っていた意味がこの時初めてわかりました。そして私は戦争のことを何もわからないんだ、と初めてわかりました。

 いっぱい戦争体験の本を読んでなんとなくわかった気にずっとなっていたのに、身近にいるおじいちゃんとおばあちゃんの戦争の話のトーンがこんなにずれていることに対してすら気付いていなかった。一般的な戦争体験の話と共通しているところしか耳に入ってこなかったからだ。それは学校や教師、社会にとって都合のよい温度の「戦争体験」だ。iPhoneを握って無邪気に玉音放送を繰り返し聞くのどかさも、語ることができない沈黙の重さも省略されている。
 戦争が終わった直後に祖母は三沢からやってきた米兵に接して全然怖くないじゃないか、と思ったらしいし、祖父は次に戦争をする支那人(中国人と言うこともあるけど、支那人の方が言いやすいみたいでした)に武器の使い方を教えていた時が一番気楽だったという。でも、アメリカ人や中国人じゃなくソ連兵と接した人はまた全然違う体験なんだと思う。なのに一人一人の個人的な体験が「戦争体験」という大雑把な括りで一つのものになってしまう。なぜなら一つのものにしてしまう語り口や捉え方を戦後教育を受けた人間は学習させられているからだ。戦後を生きる子や孫の受け取り方を彼ら彼女らは知っているのだろうか。同じ番組を見ていても一人一人全く違うものを感じ取っている断絶。戦争の罪とは人々の間にあらゆる断絶をこさえてしまうこと、そしてその断絶について口にすらできないことなんじゃないかと今ちょっと頭によぎりました。
 私の「戦争反対」と祖父の「戦は嫌だ」は全く違うものだ。祖父の体に乗っかっている全ての体験が込められた「戦は嫌だ」の情報量を私はほとんど読み込めてない。茨木のり子の詩の言葉ですら、祖父の一言の前では軽薄な文字列へと解体されてしまう。そして昨今の国会中継の言葉がやけに浮ついているのは、祖父のような重みを背負った人々が既に国会議員を引退してしまったからだともわかった。国会の外から発せられる彼らの重みはもう、中には届いていないのだ。彼らと私たちは何も共有していない。彼らがずっと恐れていたのはこれだったのか、と愚かな私はようやく気付く。戦争体験者がこの国から消えてしまうことがどういうことか、失いかけて初めて気付く。
 今の私よりずっと若かった25歳の青年や20歳の乙女は、70年前の夏空をどんな気持ちで見上げていたのだろう?