死んだ国の味 生きた国の味

marginalism2015-10-18


 この前「紅天女」を観に行ったんです、別に『ガラスの仮面』読者でもないのに。梅若玄祥師と福王和幸師がシテとワキで共演する作品ないかな、と探していたら、たまたま見つけたのが「紅天女」だったというだけで。なんでも良かったんだけど、私が能の公演を探すコツをつかめておらず、他に共演作品見つけられないうちにこの情報がナタリーに載ってしまって、チケット取れるか不安になりつつもなんとか確保して国立能楽堂まで行きました。
 私と『ガラスの仮面』は同い年なので、コアな読者世代ではないんですが、学生時代にコミック文庫が流行ったりしていたし、そもそも演劇学科がある大学だったので周囲でも愛読している人はいましたから、明らかにここの客では読者側に分類されてる扱いなのに漫画の内容ほとんど知らなくて(『紅天女』って実のところどんな話?と一応読者の友達に尋ねてはみたけど「綺麗なお話だよ」という情報しか得られなかった)なんとなく熱心な読者でチケット取れなかった人に申し訳なくなりつつ、でも国立能楽堂は好きな場所なので微妙な心持ちで時間をやり過ごしてました。能楽堂はハコ自体が小さいので一公演あたりの収容人数もこじんまりしていて好きです。特に国立能楽堂は全てがミニマリスムの極致で洗練されていて好きです。ここの座席に座っているだけでなぜか初めての時から自分の居場所に来たような気分になるので、美内すずえ先生のありがたいお言葉とか、私のわからない楽屋話で温まっている会場の中にいても孤独を感じることがなくていいです。
 ただ、美内すずえ先生の新作能を仕立てる際のリクエスト「誰も天女を見たことないから天女の舞をたっぷり見せてください」はいいんだけど「分かりやすい言葉で作ってください」はいらないなと思った。これ、『ガラスの仮面』読者か能楽愛好家が客になるものでしょ?古語調と現代語調の使い分けで異化効果を狙う作りにしていたけど、役者の力でそんなことしなくても充分なものになっていた。あと美内すずえ先生の思想が能として洗練されずそのまま挿入されていて、その部分は俗っぽく、かつ薄っぺらくて冒頭の月影先生ごとカットできるなと思った。他の表現形式なら採用してもいいんだろうけど、能としてはくどい。冒頭に月影先生の語りが入るメタ構造だったり(ここは多分『ガラスの仮面』読者用のサービスで、後々切り分けることが可能な作りにしてるんだとは推測できる)より古い時代をあえて現代語にしたりという意欲は買うけども、整理され尽くしてはいない印象。能楽って限界まで削ぎ落とされている美学があればこそのものだと思うから、作品としての完成度はどうなんだろう、素材自体はいいので美内すずえ先生の目の届かないところでこっそり改訂版作っておいてほしい。

 その他にも笛方がひどかったり、地謡のクオリティが揃ってなかったり、茂山千五郎家の芸風の新喜劇ぽさが私に合わなかったり細かいことはいろいろあるんだけども、結局シテとワキの素晴らしさにそんなもの吹っ飛んでしまいました。

 福王和幸師の一真の舞は目が醒めるような美しさだった。感動して涙が出そうになった。美しくて切なくて、全て諦め静かに宿命を受け入れてゆく在り方の強さに涙が出そうで、私はこういう男の人が好きだと思った。
 梅若玄祥師の天女の舞は目が眩むような美しさだった。この世のものとは思えぬ佇まいに誘われ異世界に入り込んでしまいそうになりかけては、身じろぎひとつせず天女の舞を見続けている一真のひたむきな在り方を見てこの世に心を繋いだ。
 梅若玄祥師のシテらしいシテ、福王和幸師のワキらしいワキ、それぞれひたすら美しい。種類が違う美しさを邁進している。この二人の組み合わせをまた観たいと強く思ったし、私も彼らに負けないよう自分の役割に見合った美しさを追い求めて生きようと誓った。

新作能 紅天女の世界―ガラスの仮面より

新作能 紅天女の世界―ガラスの仮面より