ボレロの先へ、ダンスの先へ

marginalism2015-12-25


 シルヴィ・ギエム引退公演『Life in Progress』の余韻から抜け出せなくなっていたらもう一週間経っていた。ギエムという類稀なる肉体言語がもうすぐ消えてしまう、と気を抜くと泣きそうになってたらフィギュアスケート全日本選手権が始まってしまうので、その前になんとかまとめておきます。

 会場に向かう前に緊張して吐きそうになる。ダンスを観に行く時にこうなるのは初めてだ。上野方面で他に用を足したかったけどそんな余裕もない。これ、演目が『TWO』と『ボレロ』の公演を選んでいたら少しはマシだったんだろうか。でも、この後に及んで新作を披露するギエムを心の底からかっこいいと思ったし、『ボレロ』以降の今のギエムを私は観たかった。過去の代表作の名声に甘えることなく最後まで新作にチャレンジするギエムのギエムらしさを尊敬したから、東京だけのプログラムのこちらを選んだ(地方でコンテンポラリーの新作の演目をやってもペイ出来ない、という興行的な理由もあるんだろうけど、単純にフォーサイスやキリアンやマッツ・エックのクリエイションの方に私は惹かれた)。

 東京文化会館に行く時はいつも5階の桟敷席なのに、今回だけ何故か高さと手すりのなさと角度のきつさに足がすくんで違う意味で吐きそうになる。よくよく考えると、いつも桟敷席だけど、1列目は初めてだったのでした。どこの会場もこんな角度で安全確保できるような装置なしにすれば、前のめりマナー問題も解消するんじゃないでしょうか。命の危険を感じる角度で前のめりになってる人がいたらむしろ尊敬する。とりあえず2015年12月17日で私の命が終わらなくてよかったです。観てる時は不思議と恐怖を感じていなかったのに、今思い返すとやはり足元からゾワッとしてくる。東京文化会館前川國男建築における反響板デザインにいつも心が和むのでそこに意識集中させてたけど、これ、音楽を聴きに来たならほとんど役目を果たさずイラッとするんだろうなとも思います。

 幕が上がったと思ったら、最初の2つはギエムが出ないで東京バレエ団だけなんですよね。最初の『イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド』って他のカンバニーが踊っているのをテレビかどこかで見たような記憶がうっすらあるんだけど、東京バレエ団のそれはフォーサイスの言語を理解しないまま聞こえた音だけでしゃべってます、みたいな印象でした。ウィーン少年合唱団が日本公演で「ふるさと」あたりの童謡を日本語の意味はわからないけどとりあえず歌ってみてるよ、みたいなのに近くて、発音が心許ないというか。ウィーン少年合唱団はそれでも日本語として一応聞こえてくるんだけど、東京バレエ団のこの演目に関しては何をやりたいのか全く見えも聞こえもしなかったです。他のカンパニーで見た時は言いたいことが何なのかは伝わってきたはずなんだけど、消化不良以前に体に入ってないんじゃないかと。
 次の『ドリーム・タイム』は言いたいことはわかったので、余計気になりました。『ドリーム・タイム』は良かったです。女性ダンサーが吉岡美佳さんなのもあったのかな。前にキリアン振付のドビュッシー『ヌアージュ』をBSで見た時に近いものがあると思ったら、『ドリーム・タイム』もキリアン振付だったわ。武満徹の音楽オーケストラのための『夢の時』がかなりドビュッシー寄りの作りになっていたので、似ているのもよくわかります。ああ私こういう文章書きたいんだよな、と思いながら休憩時間にロビーに出たら、近くでしゃべっている人が1曲目は良かったけど2曲目の踊りは全然印象に残らないって私の真逆の感想を言っていて私が書きたいもの全否定されてしまい少々ショックを受ける。そりゃまあキリアンじゃなくて無名の人間がこういうのやっても認めてくれる媒体はほとんどないっすよねわかります……でも、寄せては返す波を見ながら砂遊びしたり波打ち際で足つけたりそういうことしながら満潮になったり干潮になったりする様子みたいなものをひたすら描きたいというのはあります。海面白いです。特に冬の海は雪が静かに降って落ちて溶けて行く様子がとても美しいです。まあ夢でも雲(『ヌアージュ』は仏語で雲の意味)でもいいんですけど、こういう世界観好きです。音源に使われた武満徹が日本人だから東京バレエ団も解釈しやすかったのかどうかはわかりません、でも日本人にも踊りやすい曲や振付のようにも思えました。黙っていても日本人には汲み取りやすいものがある気がしました。フォーサイスは一切そういうところないので、アメリカ人らしいなとも思います。
 
 休憩明けカーン振付『テクネ』でやっとギエム登場。ギエムの肉体言語はまだまだどこまでも健在で続きそうに見えて泣きそうになる。ただ、一瞬着地の時に力を受け止めきれなくて乱れて体操選手のようにしのいだところでビクッとした。そういう時の咄嗟の動きには肉体の履歴が晒されてしまうんだなと。この人のネイティヴランゲージはバレエではなく体操なんだなと。アナニアシヴィリネイティヴランゲージがフィギュアスケートだと伝わってくる時にも心臓がおかしくなるけど、これ私だけなんだろうか。バレエやダンスの看板あげて踊っている人の出自が実は違うものだと明白に露呈した時に一人で勝手に気まずくなる。そしてギエムが限界のところで戦っているのもわかる。引退を決意した理由もなんとなくわかる。いつだってどんな舞台だってひたすらひたむきに謙虚に向かい合う人だから、どれも手を抜けないから、別れを告げるタイミングは今しかなかったんだろう。わかるけど寂しい。

 再びフォーサイス振付『デュオ2015』。外国人の男性二人の踊りは最初の東京バレエ団とは全く違って、フォーサイスの肉体言語のネイティヴが登場というインパクトを受けた。まるで違う人の作品のようにわかりやすい。フォーサイスの言いたいことをよくわかって伝えてくる。なんでこういう風に踊れるんだろう(東京バレエ団はなんでこういう風に踊れないんだろう)と首をかしげていましたが、プログラム見たら彼らはフォーサイス・カンパニーのダンサーなんですね。ネイティヴが正しく踊ってるのだから伝わってくるのは当たり前ですね。この作品、一瞬だけギエムが出てくるところがあるんだけど、フォーサイスのダンサーとも全く違う肉体言語を持っている人だということに驚いた。他の西洋人のダンサーの持つ雰囲気と一線を画す強靭な独特な個性を持つストイックさ。彼女が日本好きなのが理解できた瞬間だった。彼女の孤独の深さにも触れた。コリオグラファーは自分の手兵のダンサーを使って肉体言語を叩き込めるけど、ある一人のダンサーがその人固有の肉体言語を持ってしまったら、それはもうその人が踊らなくなると消え失せてしまうんですね。『ギエム』という肉体言語の特異さに改めて感じ入る。誰のどんな作品を踊ってもギエムはギエム。それから逃れられない。話者が一人の言語なので誰かに受け渡すこともできない。そのことは次のマリファント振付『ヒア・アンド・アフター』でさらに明らかになる。
 これ、エマヌエラ・モンタナーリの勇気を讃えるしかないですよね。ギエムの引退公演で新作で女性デュオの相手務め上げるって想像するだけで身震いするもの。振付自体がギエムという言語に合わせて作られててほぼ似たような動き(振付意図としてはもしかしたら同じ動きなのかもしれない)が続いて、ギエムと比較されるんですよ。ギエムの踊りってここしかないって空間にこれしかないってポーズで自分の身体を迷いなく見事に置いて行くことの連続だと思って見てるんですけども、それに比べるとどうしても線がぶれて見えてしまう。クレバーな迷いのない線があって、それに比べると意図を掴みきれないぶれた線が延々と平行に引かれているものをこちらは見ている気分になる。踊っている方はもっとその差を残酷に感じ取っているに決まってる。それでも食らいついていこうとする、『ヒア』から『アフター』を託されている、その役割を必死に果たそうとしている、継承しようとしている、ギエムは舞台を去るけど、彼女はこれからも立ち続ける、ギエムの言語は『ヒア』に置かれたままダンスは進み続ける、『アフター』がどういうことになるのかを見せつけた上で。その場にいた人間は歴史の転換点に立ち会ったと言っていいんだと思います。そして、エマヌエラ・モンタナーリは『ギエム』という言語を受け継ぐための努力じゃなくて自分自身の言語を作り上げて行こうとするダンサーだからこの演目に抜擢されたのかな、とも考えたりしました。恥をかいてでも手に入れたいものがなければ、恐ろしすぎて引き受けられないもの。
 ギエムは女性と踊った方が官能的なんだなと思いつつ、退廃的ではなくどこか健全で前向きな官能として伝わってきたのがもうすぐ消えてしまうこの言語の特性なのかな、など、ただ座って観てるだけなのに非常に脳味噌を消耗していたようでブドウ糖をひたすら口に放り込んで考えてたら休憩終わって最後の演目になっちゃった。

 マッツ・エック『バイ』、これ改題してくれて本当よかった。『アデュー』じゃ重すぎる。大学生の時、フランス語の授業中、先生が「アデューは特別なお別れの時にしか使わない、A DIEUとは直訳すると『神のみもとに』という意味になるから、そういう局面でしか使わない。普段使いで言ったら大変なことになるから、ただの挨拶なら絶対Au revoirを使ってください」と念を押されたことがあって、フランス人がフランス語から英語に変えてニュアンスも軽くしたことに、このお別れへのギエムの気遣いを感じた。マッツ・エックのクリエイション時の意図としては原題のままでもいいんだとは思うんですけども、これを引退公演の最後に踊る時に原題のままだと、ギエム何かあって戻ってこようと思ったとしても戻りにくいじゃん!あえての『Bye』でこうお互いまだ少し期待の余地は残しておこう、っていう気分ですよね。ギエム不器用で生真面目な人だろうから、そうしとかないと戻るに戻れないよね。『ボレロ』の封印何度も解いてるから、っていう観客サイドの期待もありますしね。でも、まあ、全体的には『神のみもとに』感は漂っていた。ベートーヴェン最後のピアノソナタをポゴレリッチ音源採用するあたり、ダンサーのこともよくわかっている。コリオグラファーの言語とダンサーの言語が一番よく融合していた。マッツ・エックはギエムのファイターとしての側面じゃなくて、おそらく素がそうであろう繊細で敏感な少女としての顔を舞台で表現するように振り付けている。マッツ・エックだから精神病棟風味は当然漂っていて、そういった閉鎖空間で踊り狂っている女の子の内面世界を見せつけるような作り。ご丁寧に彼女のキャリアでの代表作のムーヴメントもちょこちょこ取り入れて。でも、それにきっちり応えてコリオグラファーの意図を平然とそのまま踊るギエムはやっぱりファイターだ。こんなにも神経のか細い女の子が5階まで満員の大観衆からスタンディングオベーションを受け続けてきたってどういうことなんだろう。もっと彼女の踊りを体験したいけど、一刻も早く解放してあげたいとも思う。この人が無理だと思ったら無理なんだ、身体よりも心が満身創痍になってるんだろうなとも思う。芸術との戦いに敗れて精神病院に収容されたカミーユ・クローデルのことにも思いを馳せる。ポゴレリッチ音源から連想してギエムに比べてアルゲリッチは元気だな、とも感心したりもする。

 『ドリーム・タイム』の時点ではさざ波のようだった感情が『バイ』が終わると風と海の対話どころか喧嘩ぐらいに荒れ果てて、どうしようもなく立ち尽くして、感情が一向に収まらないまま電車乗ったら今度はお腹空きすぎて具合が悪くなってた。行きの電車では食べすぎたかな……って吐き気で気持ち悪くなってたのに、それは全部消化した上で全く足りなくて空きっ腹で倒れそうで、それ以来体調はずっと散々なんだけれども、あの時間あの場所にいれてよかったというのは嘘偽りのない本心です。内気で傷つきやすい女の子がファイターであり続けたこと、そうしなければ生きてこれなかったこと、人々から賞賛を受け続けることによるプレッシャーなど、彼女の長い歴史を考えると、一観衆としては身勝手に寂しくなったりもしますが、まずは2015年を無事乗り切って早く背負ってきたもの全てから解放されてゆっくりして欲しいと願っています。Merci,Sylvie!

武満徹:夢の時 管弦楽曲集

武満徹:夢の時 管弦楽曲集

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番/シューマン:交響的練習曲 他

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番/シューマン:交響的練習曲 他




追記:この公演を観た後にシルヴィ・ギエムはなぜピナ・バウシュを踊らなかったんだろうとずっと考えてたんです。マッツ・エックとのクリエイションのずっと先に見据えてあったものがピナ作品だったような気がして。そしたらギエムがインタビュー記事の最後でピナと仕事をしなかったことを後悔していると語っていて「ああ……」と思いました。一緒に仕事をするのが怖いギエムの気持ちもわかるから。でも絶対すごいものできてたんだろうなと、ついぞ観られなかった作品への憧憬は止まないです。

「後悔していることは、ピナ・バウシュと一緒に仕事をしなかったことです。彼女はダンサーのなかに眠っているものを開花させる方法を知っていました。要求の多い人でしたので、それが不安で彼女のもとに行くことができなかったのだと思います。彼女が私のなかにクラシックのダンサーしか見出さないことが不安だったのです」

http://courrier.jp/news/archives/7189

ピナ・バウシュ―怖がらずに踊ってごらん (Art edge)

ピナ・バウシュ―怖がらずに踊ってごらん (Art edge)