個人的鑑賞

marginalism2016-02-28

Noism1×Noism2合同公演 劇的舞踊『カルメン』再演、KAAT初日に観に行ってきました。
http://noism.jp/carmen2016/
今回の再演で一番気になっていたのは、ミカエラが初演キャストではなくなってしまうことでした。
井関佐和子のカルメンが素晴らしかったのはもちろんのことですが、初演時は真下恵のミカエラと中川賢のホセがその素晴らしさを支えていたように思っていたので、ミカエラのキャストが変わるとどうなるのかなと。
カエラという登場人物は「仲間はずれ」なんですよね。物語世界の中では居場所を与えられていない、役割がない役なんです。外側にいる学者には狂言回しという役割があって、物語世界と狂言回しの間を行き来している老婆ドロッテにはトリックスターという役割がある。そういう外側の人が語るお話の中でミカエラは「世界に入れない人」なんです。ロマという言い換えはカルメンを語る上ではまどろっこしいので、ジプシーという表現をあえて使いますけど、基本的にはジプシーと兵隊の日常に起こったことを学者が説明します、という構造になっていて、そういった役割に属さない作中人物ってミカエラだけなんです。ホセは「日常」にいる地点から始まって、どんどん「非日常」へ追い込まれていく人ですが、ミカエラは一人だけ最初から最後まで「非日常」の人なんです。そして、それは観客である私たちに一番近い立ち位置でもあります。この国にはジプシーもいないし、兵隊も建前上はいないことになってるから、ミカエラが触れた彼ら彼女らの生活への感情が、舞台を観ている私たちの感情とシンクロする部分はあるんですね。
そんな「見てる人」だったミカエラが「踊る人」「踊らざるを得ない人」へと変貌する過程が初演で印象に残った部分の一つだったものですから、それを成し遂げたダンサーが客席側にいるってどういうことなんだろう、意味がわからない、と幕が上がるまでは思っていました。
でもそんなことはいざ始まってみたらどうでもよくなりました。初演時にキャラクターをしっかり作りこんであるので、あとはそこにキャスティングされたダンサーの個性を足していくだけということになっていました。ミカエラはちゃんとミカエラでした。

再演だからでしょうか、カンパニーがオーディエンスを信頼してくれているのも感じました。初演と同じ役にキャスティングされていたダンサーに顕著にそれを感じたかな。清々しいまでに振り切って表現したり、前回より余裕や遊びをキャラクターに持たせていたり、体に既にその人物が入っている人は初役の人とは違うアプローチをしていたように思います。特にホセの人物解釈の深みが初演に比べ格段に増していた。今回、前から2列目の席だったのですが、ルビコン川を渡った瞬間のホセの表情にゾクッとしました。ダンサーが自意識で作り上げたものというより、その場の空気によって引き出されたものじゃないかな、あれ。

結構細かい所ちょくちょく変えてあったような気もするけど、キャストが変わればその人に合わせて手直しするのもまあ当然だろうし、全般的に初演に比べて整理された構成になってた気もするんだけど、初演の記憶がほとんどないんですよね。いちいち後で思い返すために記憶するのやめた、全て脱ぎ捨ててこの空間に自分を投げ込んで楽しもう、と思ったし、こんな作品に対して後からグダグダ書き連ねるのも野暮だなとも思ったし。(そのせいで今、初演のことをほとんど思い出せてなくて、こんなにリフト多かったっけ?とかいうのをすり合わせられず後悔してるんだけど)
いずれにせよ、初演の初期衝動の熱さも、今回の再演の粗熱が取れてよりよく整理されて出されてきた(と思われる)仕上がりも両方楽しめました。Noismの『カルメン』はピナ作品における『コンタクトホーフ』、ベジャール作品における『ボレロ』並の代表作になると思っているので、これからも節目節目で再演してほしい。骨格がしっかりしてるから10代だけで上演とか老人だけで上演とか、カルメンを男性にするとか、そういう冒険しても耐えうる強度があるはず。だからNoism2のお嬢さんかなと思うんだけど、休憩終わって第2幕開始のために階段を降りながら客席を見ている時、今あなた白鳥じゃなくてジプシー女なんだから、もっとえげつなくこっちを舐め回すように値踏みして睨みつけていいのよ、初々しくて可愛らしいけども、もっと飢えて、牙を剥いて、などとこっそり念を送ったりもしました。

ただ、叫びの多用が少し気になって。

声の存在感ってものすごいんですね。肉体表現を凌駕するんです。私は言葉から解放されたくてコンテンポラリーダンスを観に足を運ぶんだけど、ダンサーの声を使った叫びは肉体の叫びをかき消してしまうんです。言葉には完全に負けます。ダンサーがこちらに伝えようとするものはあくまでも肉体表現で伝えて欲しいと個人的には思ってしまうんです。役者が声を使い言葉を使うことについては全く構わないです。その人たちはそれを使うことを常日頃からトレーニングしているプロですから。この舞台においてもそれは変わりません。でもダンサーって声で表現するプロではないよね?声を聞きたいなら、それを専門としたプロの舞台をちゃんと観に行くし、この舞台の構成って語りと踊りを分業しているから、ギリギリ今回はアリ、くらいのさじ加減にはなっているんだけど、これ以上やるとくどくなるかな、という線だったようにも思えました。
私が今まで観てきたNoismの作品だと『ZAZA〜祈りと欲望の間に』『ASU〜不可視への献身』『箱入り娘』あたりで声や言葉を印象的に使っていて、それらに対してはこういう感情を抱かなかったので、何が違うんだろうとしばらく考えてみたんですが、『カルメン』ってNoismがやらなくても既に散々手垢のついたイメージとあらすじが世間に流布されているものじゃないですか。初めて世界観を提示します、って作品だと、声や言葉はそこにコミットするための手助けになるんだけど、カルメンはいやいやそこまで説明してもらわなくてもわかります大丈夫、むしろもっと分かりにくくしても平気、って気分になってしまったみたいです。
何か技術的に新しいものを導入する時にこういう題材って重宝するんだと思うんです。ある程度のことを省いても平気。手垢にまみれた部分は綺麗に拭き取り、その上に新しいものを積み上げていっても、オーディエンスにも常識としてアウトラインは入っているから各々世界観の自己補完ができるんですよ。それだけに、やりすぎるとすぐ陳腐になってしまうので、メインストリームは足し算より引き算の方が必要になってくる。引いた部分に新しい何かを加えないとこの時代に新作として提示する意味がない。その試みが概ねうまくハマってるんだけど、今回は再演だったということもあるのか、私のコンディションに対して声がややノイズになってしまっていたのかもしれないです。

あとはもう本当にごく個人的なことで、私以外の人には全く関係ないんですけど、Noismには現在二人、私と通った場所を共有している人が所属していて、それぞれに勝手に親近感を抱いているところがあったんです。一人は同じ大学の出身者、もう一人は高校時代に楽器を抱えてレッスンに通ったりセンター試験を受けに行ったりした地元の大学の出身者で、私の世界は18歳で都会の大学に進学した時点でパッキリ二つに分割されているのに、どちらの私のトポスにも接している人がいて、そして今回の配役ではたまたま都会の私が田舎の私を殺すという構図になっていて、田舎の私が都会の私に葬られたことになんだかとても安堵したんだ。私はもうあんなところに戻りたくはない。だから、もう戻らなくていいと舞台上から思いがけなく言われたようで嬉しかったんだ。