不意を突かれる

カミーユ・クローデル展いってきたんですけど。
彫刻って自分の名前後ろとかに彫ってるじゃん、私とにかくそれを確認して回ってたのね。
それで、1期の区分の『オーギュスト・ロダンの胸像』の後ろの所に、Camille Claudelという名前の他にアダムとイブのマークだっけか?や、なんかみたことあるんだけどちょっと思い出せないんだけど、葉っぱ部分がこうもりの羽みたいになってる木にヘビがからまってる相合傘みたいなマークが入っててね、それがなんだかロダンへの愛の証のようでグっときた。乙女だ、可愛らしいというか茶目っ気というか、微笑ましい、愛の証がそこに永遠に刻まれているのだと思ってグッときた。
2期はロダンとうまくやってた頃のものだったと思うのだけど、ここはあんまりピンとくるものがなかったかな。『幼い女城主』の曲がったおさげ髪の少女の方はちょっと反応したのだけど、まっすぐなおさげ髪の少女の方にはあまり反応しない自分が自分でおかしかったです。やっぱりちょっと隙がある方に惹かれるのだなと。
あと、この人は老いるのが嫌だったんだろうな、というのがひしひしと伝わってきた。老人ってモチーフとして造型が面白いから張り切って作る人もいますよね。老いに対する嫌悪感が感じられた所に「女性作家」なのだな、というか「少女」なのだろうなと思いました。
3期、4期、ロダンと決別してからのものの方が私は見てて面白かった。私、もともと、ロダンとか岡本太郎とかああいうあまりにも男性的なもの苦手なので、ここらへんからは、この作者が全くもって西欧でジャポニズムが流行った時代の人で女性作家だというのが伝わってきて、私にとっては親しみやすくてほっとするものだった。小さな小さな世界の物語が好きなので、なんだか盆栽みたいというか、スノードームみてるみたいというか、私は「なにもなにも ちひさきものはみなうつくし」の国の女性ですのでこういうのは好きです。この人はきっと日本にきたかったのだろうな、可愛がってたらしい弟ポール・クローデルは実際駐日フランス大使になった人だし、姉も日本にきたかったのだろうと勝手に思った。

カミーユ・クローデルというと、その作品より人生の方がはるかに有名な女性で、私もその人生を描いた映画から興味を持ったはずなので、作品にもアウトサイダー・アートのようなものがどこか見え隠れするのだろうな、と、アウトサイダー・アートが苦手な私は、行く前はちょっと覚悟して足を運んだのですけど、それは全くの杞憂でした。きちんと作品と向かい合うと、落ち着いていて聡明でシャイで優しい女性が真摯に芸術と対峙して作り上げたものという印象が、本人の生活や精神が破綻し始めているらしい4期の作品でも感じられて、見る側が期待して投影したいだろう「狂気」は全くなくて、そういうものを求めている人は肩すかし食らうくらいすっきりした作品群だったなあ。特に4期の作品は清々しさの中にも艶やかさが増していて、それは確実に彼女独自の個性で、一人の彫刻家として語られる事があまりにも少ないことが悔しくなってきたよ。私、今回来ていた作品の中では4期の『フルートを吹く女(セイレン)』が一番好きだった。ローレライのあのセイレンでいいのかな。セイレンの像からは確かに音楽が聴こえました。私が知ってる音楽だ、って、これは世界中のある種の少女や少女だった人には確実に聴こえると思うよ、読書や音楽が好きではにかみやで自分の空想に耽りがちな少女達の夢が詰め込まれてると思った。最近のものだとソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』や高野文子の『黄色い本』が自分にとって特別なものである女の子達が大事にしてるものが形になってた。

それで、この後の彼女の人生を知っているそういう女の子だった私が気負って向かい合わなきゃ、と思っていたものは、彼女のそういった作家としては後期の作品を見ているとそんなに肩に力入れなくていいんだよ、と言ってもらったようで、私は恵まれているんだ、20世紀から21世紀の日本で生きているという事がとても恵まれているんだ、彼女の闘争の歴史、そして彼女の後のボーヴォワールの闘争の歴史、日本の作家でいうと尾崎翠の闘争の歴史、そして松浦理英子の闘争の歴史、或いは高野文子の闘争の歴史、彼女達が切り拓いてくれた道の後を私は行くのだから、安心して前も向いて歩いていきなさい、と言われているようで、その大いなる優しさに泣きそうになりました、というか涙ぐんでた。私はきっと、彼女のように人生や精神がもつれることはないだろう、と自信がついた。彼女に会いにいって良かったです。芸術に殉ずる事は決して悪い事じゃないなと思った。本当に励まされた。3期4期の作品を見ている時は、本当に尾崎翠の小説を読んでいる時のような感覚になった。第七官界彷徨してた。人生なんかどうでもいい、作品に詰め込まれたものが彼女達本来のものだから、私は彼女達と同じものを見てきているはずだから、それはどんな時代でも消えないものだから、と確信できて良かった。そして私は老いる事がそれほど怖くなくて、そういうライフスタイルが多様化している時代に生きる事ができる幸せを非常に感じて、本当にラッキーなのだなと、長生きして、次にくるこういう感覚を持つ女の子にリレーの襷をつなぐ事が一生の仕事なんだろうなと思えて、本当によかった。

5期はカミーユの写真と、彼女が精神病院に入院中に書いた手紙と、彼女が師事したオーギュスト・ロダン、アルフレッド・ブーシェが彼女をモチーフに作った像という外伝というか、蛇足になるんじゃないか、と見る前は思っていた展示だったんですけど、ここで不意を突かれて落涙。ロダンの作るカミーユは、なんだか男の情けなさというか、ああつくづく男の人はロマンチストなんだなあ、という感想しか抱けないものだったのですけど、ブーシェが作った『読書するカミーユ』という像は、読書や音楽が好きではにかみやで自分の空想に耽りがちな少女の姿を温かく見守る大人の目線で作られていて、こういう少女はこうやって庇護を受けている、としっかりわかって、大概にしてこういう少女は自分が一人で世界と戦っている気分に陥りがちなのですけど、それを優しく温かく見守る大人の存在というものもこういう形になってて、私はそれに感動しました。カミーユ・クローデルが最初についたこの先生は彼女の最大の理解者だったのだろうとわかって、私達は一人ではないのだと、救われた。一人じゃない、というのは私達にとってある意味一番素敵な呪文だ。そんなものを作ってくれた先生がいて、私は嬉しい。芸術は素晴らしい。私達は素晴らしいものを素晴らしいと感じられる心があることを誇りに思えばいい。思えばいつだって私は「芸術」から離れることはできなかった。でも、それでいいんだと思った。