人間簡単には変わらん

先日、仕事中に具合が悪くなるも、私は生来の負けず嫌いなので、そういうの悟られたくなくて、隠し通してその日のノルマをこなしたり、そんな感じでなんとか続けてましたら思いも寄らぬ方向から気遣われまして、そこで初めて自分が無理してたと気付き、そういう所、直ってないのかと愕然としまして。すっかり克服したと思っていたのに、これは二十代の半分くらいを華麗に彩っていたDVと共に生きていた頃と全く変わってないじゃないかと。

他人とうまく付き合えなくて表面上だけ優しい人間のところに逃げ込んで、袋小路に迷い込んで、そっからなんとか脱出して、そして私はそこらへんの感覚はうまく折り合いつけられるようになったと思っていたのに実はそんなことなかった。具合が悪くなるといつの間にか思考停止して負けず嫌いの自動電源だけで動きますから、倒れるまで動きますから、そこに行くまでに今回はたまたま自動電源解除するヒントを下さった方がいたので助かったけど、これ行き着く所までいったらまたパニック発作やらかしてたなあと、自分をまだまだ信用できないなあと、自分の見積もりを修正した次第です。

私は鬱持ち・パニック障害持ち・DVサバイバーその他もろもろ曰く付きですので、人並みの生活は無理だと思っています。気休めに「大丈夫だよ、普通になれるよー」と言ってくれる人に限ってその後いじけた顔や困惑顔と共に私から去っていくので、なんというか、住む世界が違うっていうのは悪いことではなくて、生活の知恵だと思ってほしいなあ。人並みの生活を送るだけが幸せじゃないです。私に人並みを求めるな。人並みにならなきゃいけないわけでもない。人並みになれなくてつらい人にはそう言いたい。

で、夏の自由研究で文体見つける文体見つけるとか騒いでたんだけど、文体以前にやっぱりテーマを定めることが重要だなあと途中で気付いて、「暴力」と「解放」そして、それに「性(ジェンダーなのかセックスなのかセクシュアリティなのかはちょっとまだようわからん)」や「宗教(これは余裕があれば。多分次に持ち越し)」を絡めることができればいいかな、と見定めたのですが、ここらへん、自分でだいたい整理がついてるからいけるかな、と思ってたんだけど、意外とまだ整理ついてないみたいで、徹底的に棚卸しやらなきゃいけないみたいだなあと。思ったより骨が折れることになりそうだなあと。捨てるものは捨てられるだけ捨てたか、まずそっちを洗い直してみないとなあと。いらないものは捨てないと、棚卸しする余裕がなくなるから、何がいらないかきちんと見極めてできるだけ棚卸しするスペースを広く確保したいです。
追記
「あなたにしか感動しない。」
という松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』の台詞にドキっとして。


ナチュラル・ウーマン

ナチュラル・ウーマン


ナチュラル・ウーマン』の劇中劇というか、作中作のエピソード(主人公とかつての恋人は二人とも漫画を描いてたという設定)で奴隷解放前後の合衆国南部の黒人の物語しか描いてなかった、とかいうのがあって、それがちょっと気になって久々にパラパラ読んでいたのですけど、そっちより「あなたにしか感動しない。」と恋愛対象に言い切れたことが私はきっとなかっただろうなあと思って、でも高橋さんのスケートには言い切れる。そう思った自分にドキっとした。

私は今そもそも小説を読むのを楽しめるのかしら?とふと疑問になって。それで文学少女としての自分の原点にある松浦理英子先生の小説をパラパラめくってみて、ああそれはなんとか大丈夫ぽいとほっとしたのですけど。なんか勝手に義務を背負ってたみたいなんですよね、私も早く書かなきゃって。別に今はまだ仕事でもなく、私の作品を認めて待ってる人がいるわけでもなく、書いたとしても読者すらいないんですけど、今まで私は物書きを目指していた人々の夢を沢山奪ってきてしまったから、書かなきゃ、とか、志半ばで亡くなった仲間の分も頑張らなきゃ、とか、書かなきゃ認めてもらえないから、とにかく認められるための材料は作らなきゃ、そして一刻も早く認めてもらわなきゃ、とか放っておくと勝手に自分で荷物を重くしてしまう。

「才能」つうもんは持っている人にも持っていない人にも残酷な代物で、私は全く才能がなくて徹底的に挫折した経験もあれば、自分の持っている才能と向き合わないで長い間逃げていた経験もあって、ある人の気持ちもない人の気持ちもわかるので、どっちにしても残酷だと思う。才能のある人間というのは自分の才能に無自覚な所があると思います。自分が空気のように普通にできていることだから、それが他人に羨ましがられたり嫉妬されたりということに鈍感になりがちだと思います。才能豊かな人のそういう鈍感な所に対して猛烈に怒っていた自分が、他人からみるとまさに怒りの対象であったりとか、自分を含めて「才能」に振り回されてる人を沢山見知ってきました。

自分はなんで書きたいのか、とか、そこまでして書かなきゃいけないのか、とか、あまりにも思い詰めすぎて握りつぶしてしまったんじゃないのか、とか、ちょっと混乱してきたので、硬く握りしめていた手を一旦解いてみようと思いました。それでも手元に残っていたら、それは「文学、ピュアラブ」ってことなんだろうし、どっかにこぼれ落ちていたらまあそういうことなんだろうなと。
「書かねばならない」と思い詰める理由は何もないんです。私はだって今はまだ小説を書くことで生計を立てているわけじゃないから。無理矢理押し付けたごく少数の友達にしか読んでもらえてないから。本当にこれしかないのか、わからなくなってきた。思い詰めすぎてどうもおかしくなってきている。
そもそも、「芸術家肌」とか簡単に私にそんな言葉を投げつけて通り過ぎてあきらめていった人々の分まで背負わなきゃいけないのか。その人達の夢を奪った分まで頑張らなきゃ、と自分を追い詰める必要はあるのか。私は言葉を失うのが怖いという感情と、小説を書かなければならない、と追い詰めることを一緒くたにしてるけど、混同しなくてもいいんじゃないか、とか。
失語状態になった時、今まで真剣に向き合ってこなかったツケだとは思ったけど、そしてこれからはきちんと向き合おうとは思ったけど、真剣に向き合って、言葉を失ったんだったら、逃げて失った時とは違うんじゃないかとか。確かに言葉を取り戻す作業の一環として書くことから始めたけど、それの最終目標が小説だったのかなあ、あの当時のことをよく思い出せないなあ。結局、声を出せたり引きこもりから脱したきっかけは麻雀だったし。雀荘通ってるうちになんとか社会復帰したんだっけ。
なんというかなあ、「楽しく文章を書く」ってことを私は知らなくて。大学でよく「小説を書くのが楽しい」って言ってる人いたけど、そういう人の書いた小説がゼミなんかで発表されると本人以外楽しいのかなあ、というような代物だったし。それで私の悪い所は自分が小説家志望じゃなかったから詰めの甘いところビシバシ指摘して泣かせても、「私ジャーナリスト志望だもの」って顔してさも当たり前って居直ってたところだなあ。そうやって自分の才能から逃げてたんだよなあ。そりゃまあそんな不誠実な態度だと言葉の神様に怒られて言葉を奪われても仕方がなかった。
以前、仕事でいった美術系の大学で、「のだめむかつく、だって才能あるのに努力してない」って学生さんが言ってて。美術系の大学を出て、学校の先生になりそうな人の意見をダイレクトに聞けて、あーこういう感情を私はきっと学生の頃周囲に持たせていたのだろうなと思って、とても新鮮だった。そういう人達は私の前ではそういう気持ちに蓋をしていたから、その下にどういう感情があるのかずっとわからなかったのだけど、こういうことだったのかってわかって、目から鱗だった。

こうやって文章を書けるのは楽しいのかなあ。言葉が戻ってきたことには本当に感謝してるのだけど、楽しいっていうのはやっぱわからん。
わからんからとりあえず手放してみます。思い込みをできるだけ排して、まっさらになってみたいです。言葉を失ってもかまわないくらいまっさらにしてみた方がいいんじゃないかなあ。