「運命の女」に祭り上げられるということ
矢田津世子の短編中編をまとめた文庫を読了。
カミーユ・クローデル、クララ・シューマン、矢田津世子は、表現者としての評価よりオーギュスト・ロダン、ロベルト・シューマン(とヨハネス・ブラームス)、坂口安吾のファム・ファタルとしてそれぞれ名前が知られてる女性達で、でも、その座に置かれているのが窮屈そうな女性達で*1、何がそのギャップを生んでいるのか気になったので自分なりに作品をとらえてみようと思った。彼女達の作品に触れるという作業は、私にとってはあらゆる方向から漏れ出るルサンチマンに触れるという作業になりました。
矢田津世子の『句女抄録』(なんかPCで出ないけど、句はやまいだれがつくよ)以降の作品にある凄みは、彼女が恋愛成就より表現者であることを選択したから出てるのかなあと。*2
読み終わった後、いろいろ書きたくて書きたくてしょうがなかったんだけど、私が書きたかったことはここには書けないことみたいなので、もうちょっとこの感情を寝かせてみます。
なんというか、枠組、孤高である事を強制された女性作家達の悲鳴、というのかなあ。非常にデリケートな問題を孕んでいて、「孕む」という言葉を使うことにすら躊躇するような、ブログで気ままに書いていいのかどうか、厄介な、でも私にとっては密接な問題が見つかったぽい。「美人」作家の内部の悲鳴と、それを押し付けた外部の恣意的な無責任さと、感性が鈍い人々の賞賛とやっかみと、そういったルサンチマンのうねりが渾然一体となってダイレクトに伝わってきてひどいです。
彼女達が立ち向かうものはあまりに膨大で巨大過ぎて、それでも立ち向かっていった姿に暢気な人々は「美しい」とか「哀しい」とか適当にうっちゃって高みの見物してたのだろうけど、そこで絶望すらできない繊細さと賢さすら持ち合わせてしまったって、うん、やっぱり絶句してしまう。そら発狂もすれば命も削るわ。絶望するためには発狂するしかなかったんだと思ったわ。書いてるうちにちょっとは整理できるかと思ったんだけど余計混乱してきた。