最近自信のないこと

世間でどれだけ今フィギュアスケートブームとかで盛り上がってるのか全くわかりません。一般の人の認知度とか興味の割合が思ったよりある気がして、私は何がはやってるかよくわからない時は実家の両親の反応をリトマス試験紙としているのですけど、うちはもともと両親ともフィギュアスケート割と好きで見てたから(少なくとも母親はアイスダンスとペアの違いがわかっているようです)(これ結構レベルもらえるんじゃないですか)、こればっかりはちょっと両親の反応で確かめることはできないんだなあ。

中野さんのドーナツスピンが本家のバイウルよりスワンスピンぽくて好きです。私の記憶が確かならば、あのスピンは今でいういわゆるコーエンスパイラルのようにスワンスピンとかバイウルスピンと呼ばれてたはずなんですけど、リレハンメルオリンピックの時のオクサナ・バイウルスワンレイク由来だったと思うんですけど、あの時本当にレダと白鳥が見えた気がしたんだよなーとかそういう懐古厨は置いときますが、本家のそれより中野さんの腕の使い方が白鳥ぽくて好きです。

本家見直したら旧採点方式の一つの極地かなあと思ったよ。最近やっと技術に目を向け始めた懐古厨はフィギュアスケートの最高峰はペアのG&Gかなあ(アイスダンス的であり、シングル的であり、それでいてやっぱりペアであり、芸術性と技術が極めて高度な所で噛み合ってると思った、そんでカーチャのフリーレッグ綺麗)と思うのですけども、その派生系でバレエ型に特化した極地がリレハンメル五輪のバイウルだったなと。
とりあえずSPの黒鳥ヴァージョンおいときますね。

http://www.youtube.com/watch?v=Y6zKfZVurJY

マリー・アントワネット』は英語圏やフランス語圏のサイトの方が全然それっぽくて勘違いも少なそうなんですが、興収考えて日本はあの方針でいったのかしら。日本人ほどマリー・アントワネットをナイーブに好きな国民もいなそうだしなあ。確かにソフィア・コッポラ色おさえた方が客は入るだろうし。

アメリカの(多分)公式サイトhttp://www.sonypictures.com/movies/marieantoinette/(音出るよ)
フランスの(多分)公式サイトhttp://www.marieantoinette-lefilm.com/(音出るよ)
日本の公式サイトhttp://www.ma-movie.jp/(音出ないよ)

こうやってみると日本の帝国劇場風味が際立つなあ。『ロスト・イン・トランスレーション』の時は日本のサイトの方がよくできてたと私の記憶が確かなら(ry

映画館で、一人で見ていた還暦ちょい過ぎくらいのお父さん(おじいさん?)が途中で出てったり、キャリアウーマン風の人が怒った歩き方でハイヒールカツカツ鳴らして途中で出てったり、そういう人が出てった後の席に小学生の女の子二人連れが座ってワクワク見てたりそういうのが楽しかったですよ。小学生はさすがにベルばら重力圏にはいないのだなあと思ってさ、高橋真琴のおひめさま絵本を私が小さい頃むさぼり読んだみたいな感じで見入っててかわいかった。

私は自分の感覚がメジャーでないとは理解しているから、どうも本当に好きなものを他人と観に行くのはためらってしまいます。
そして自分がメジャーではないからといってマイナーな人々とはわかりあえるということじゃなくて、マイナーなものは細分化されているから更に泥仕合になるのだったなあ、と、若かりし大江健三郎の短編集をほぼ1年仕事で読み終えて思いました。


死者の奢り・飼育

死者の奢り・飼育

大江健三郎の小説はよく「難解」と言われてるけど、私にとっては全然小説自体は難解じゃなかった。この人の持っている技術・力量によって小説自体の質は明晰でわかりやすかったし読みやすかった。私にしてみれば、これより難解な小説は沢山あって、例えば21世紀に入ってからの文藝賞受賞者の作品あたりは何を面白がっていいんだか全然わからなくて大江健三郎よりよっぽど難解。
ただ、大江健三郎の小説の構成や文体の巧みさに心酔すると共に主題の一部への嫌悪感を抱き、これは肉体に規定される精神の有り様の違いが大いにあると思うので、面白いけどつらくて、小説としては超一級品なのだけど身体を浸食されるのが嫌で、でも主題の全てが嫌なのではなく、あくまでも私の好きな素材が揃っていてその上に振りかけられている調味料が苦手というだけなのに、最初に鼻につくのがその調味料なので非常に読むのに疲れました。
まあ、技術は大変に優れているのだけども表現がどうもピンとこない、というわけでもなくピンとくるんだけど、それはあまり見たくない、という、『芸術』と呼ばれるものにはついてまわるよくある話です。
次は『個人的な体験』に入ります。小説を読むという行為は大変にスリリングな行為であったということを思い出して、私はなんでこの感覚を忘れてしまっていたのだろうか、と疑問に思ったけど、スリリングな行為はできるだけ忘れてしまわないと身が持たないからかも知れないです。

大江健三郎という人に関して言えば、私はその本業である小説を読むより遥か前に政治的な発言者としての彼を知っているので、こんな小説書いてる人だとは思わなくて、いい意味で裏切られました。確かにこの人はなによりもまずものすごい「作家」なのでした。どんな文学賞よりも大江健三郎賞に価値があると私のような人間は思います。この作家に認められることこそ文学者にとって最大の栄誉であると。