タイピングがデトックスだったらしい

腱鞘炎でタイピングできないと大変にストレスがたまりますね!それでこじらせた人間がいうことじゃないですけどタイピング自体が楽しいです!(ほんとはまだ休ませなきゃダメ)
で、日曜深夜になるのか月曜早朝になるのかわかりませんけど、「水曜どうでしょう」をテレ朝でやっていたから見てて、その流れでフジに変えたらくるりがでとった。ルーツミュージックを紹介的なもので、岸田がアーノンクール指揮のベートーヴェン第九をあげてて、アーノンクール?とちょっと考えましたが、さもありなん、とその後すぐ納得してしまった。あー京都人だなあって。アーノンクールは私にはちょっと縦すぎて、というか学究肌すぎて好きな人がその人の何が好きなのかはわかるけど、私は苦手だ、というタイプの指揮者なのですが、岸田の音楽をふまえて考えると彼が好きなのはわかるなあと。あとまあ「都育ちのプライド」みたいなやつ?つうか「よそものに俺等の文化がわかるわけねえだろ」的な感覚?そういう生来のツン要素が備わってる排他的な所が通じているんじゃないでしょうか。京都の人ってツンツンしてるよね。デレを装っていても本質はツンだよね。「京都の人」成分はちょっと苦手だけども人間の性質はそれだけではないので、京都出身の人全員が苦手なのではなくその人の「京都の人」成分の割合と出方によるかなあ。他の要素との組み合わせで相殺できたり反転することがあるのが人間の面白い所だ。

育った土地にまつわる匂いって普通に暮らしていたって消すの難しいし、ましてや音楽なんてそれがダイレクトに出るものだから、その感覚が共有できる人同士が通じるのは自然だとも思う。そして、自分のそういう部分を全面的に肯定しているわけではなく、わかった上で、でもどうしようもないと受け止めてでもやってるから、私はくるりが嫌いじゃないんだと思います。
そしてきっと直前に見ていた番組があまりにも「北海道らしさ」全開だったので(私はこれについては完璧に客観的な視点を持たないからどういうものなのかうまく説明できませんが)(正確に言うとどうでしょうのノリは「札幌近辺らしさ」だと思うので、私の持っているものとはちょっと違う所もあるのだけども、内地の人間にしてみたらそこはそれほどこだわる所ではなさそうなので割愛)岸田繁の「京都人らしさ」が余計浮き立ってしまいました。
ただ、「観光地育ち」で「同い年」で「理屈っぽい」という切り口では私とこの人は共通している所もあって、そこらへんでは通じるものがあります。理屈っぽい個性をもった観光地で育った人はなんかわかります。何が、と訊かれてもこれこそうまく説明できないんだけど、日常的に自分ちの近所に観光バスが止まっているような、そんで観光客に写真撮って下さいと頼まれるような(←若い時分の私は中身こそ理屈っぽいですが見た目にはそんなもんちっとも滲み出ずフレンドリーなお嬢さんそのものなので声かけられやすかった)、更にその地にまつわるヲタ的な人が感極まっているのを小さい頃から普通によく見ていたりすると、なんかわかる匂いがある。観光客って基本的に舞い上がっているから見ていて面白いですよね。観光地の舞台裏知っていると、なんか、まあ、ちょっと、損な気はします。
私の属していた学校の団体はちょくちょく観光行事に花を添える役割にも担ぎ出されましたから、ほんと変にすれている所があって、めったなことではうっとりできないんですよね。地名と学校名を出すだけで観光客がうっとりするのをずっと見ていると、なんかなあと。大概の日本人(かどうかはわからないがとりあえず首都圏では通じるぽい)の共通認識として地名と学校名だけでいともたやすくうっとりできるようなイメージを持つ固有名詞なので、使い勝手がいいっちゃいいし存分に利用させてもらってますが、イメージ先走りしすぎてめんどっちい時はほんとめんどっちいです。実態知っているとうんざりするよ。イメージ先走ってポーっとなってる人は実態になんか向ける目ついてないけどね。
これ、恋愛にも通じる話で、観光地って要は商売女だから、商売女にうつつを抜かしつつ気だてのいい奥さんや彼女がいる普通のサラリーマン的な人が私は苦手で、商売女にへりくだるタイプはもっと苦手で、商売女を訳知り顔でくどく男は更に嫌で、商売女に妄想ぶつけてストーキングするタイプは論外だがそういうのによくつきまとわれました。ここまでくるともはや恋愛じゃないのですけど、彼等はそれを恋愛と思い込んでいるのだから私はそれが恋愛なのだったら恋愛に関わりたくなくて、だから「モテるのに一人で本読んでる変な人」と学生時代思われていたらしいです。これモテ自慢じゃなくむしろ受難。需要と供給のミスマッチをわかってもらえないという受難。
結局自分は「観光地育ち」の刻印を存分に生かす「商売女」としての道しかないことを受容するまでもがいてもがいて苦しんだよ。あまりにもそれが私の個性すぎて認めたくなかった、という感覚をわかる人のためだけに私は伝えたいことを伝えたいと思っています。イメージを超えた本質を渇望している人のためだけに。
http://www.hokkaido-jin.jp/issue/sp/200409/sp_04.html
↑ベタにこのリンク先の文章描写そのまんまな自分がずっと嫌でした。が、ベタなイメージを逆手にとればいいんだと気付いてからは私はものすごい財産持ちだと思えるようになりました。あまりにもそのまんまのイメージを背負って私は生きているので、もしかしたらこれは希少価値なのかもしれないと「商売女」視点で喜んでおります。映画の中の少女が生身で話しかけてきたらびっくりするよきっと。私はこういう少女に生身であるかのような肉体を与え血を通わせることができる文章を書けると思うよ。だからきっとこれ大事な部分なんだと思うよ。少女の孤独が引立つ街で育ってよかった。私はその街の空気を今でも身にまとって棲息しているから、きっと孤独な少女を惹き付けやすい。
臆面もなく書き連ねますが、最近「かわいい」「綺麗」「美人」「別嬪さん」などと言われると普通に嬉しいです。この「普通に」がどれだけ難しかったことか。もう外見に、生まれつきたまたま与えられたものだけじゃなくて、自分で作り上げたものも出てくるからね、10代の頃あんなにかわいかったのに今は…って人もいっぱい存在する歳になったからね、そんな歳になったけど10代の頃と同じような言い回しで外見を褒められるのは嬉しいです。褒められて伸びる人がどういうものなのかやっとわかってきましたよ。あと、「姐さん」と呼ばれるのも嬉しいです。ちょっとは威厳が出てきているようで嬉しいです。私は「少女」を守る「姐さん」にずっとなりたかったからとても嬉しいです。少女の孤独に気付いて手が届いて差し伸べたり助け舟を出したり時には距離をおくけど優しく見守ることができる大人の女性が私の周りにはあまりいなかったから自分がそういう人になろうと思った。それが私が生き延びてくるために何よりも必要な目標だった。酒も煙草もコーヒーも体質的に苦手で拒否していても「姐さん」にはなれるらしいので、それは私が必死に作り上げて積み上げたものに基づいたことなので、本当に努力は無駄にならないと思います。回り道をしても最終的に目的地に着けばいいんです。私は「誰か」がいないと文章を書けません。自己満足の文章が書けません。「誰か」に私が訴えている思いが解釈間違いなしで通じた時が私の一番幸せな時です。
今の所定まっている「誰か」のキーワードは孤独・少女・青春。