今はもうない国ができるまで

ムネカタ家からぶっこ抜いてきた「石の花」全5巻読了。

石の花(1)侵攻編 (講談社漫画文庫)

石の花(1)侵攻編 (講談社漫画文庫)

石の花(2)抵抗編 (講談社漫画文庫)

石の花(2)抵抗編 (講談社漫画文庫)

石の花(3)内乱編 (講談社漫画文庫)

石の花(3)内乱編 (講談社漫画文庫)

石の花(4)激戦編 (講談社漫画文庫)

石の花(4)激戦編 (講談社漫画文庫)

石の花(5)解放編 (講談社漫画文庫)

石の花(5)解放編 (講談社漫画文庫)

ユーゴスラヴィアがチトーによってまとめられる直前のお話。第二次世界大戦ナチスと戦っていた連合軍以外の国のお話。
最初はこの地域独自の事情が描かれていたりもするんだけど、話が進めば進むほどよく見る「悲惨でむごたらしい戦時中の過酷な現実」の描写になっていって、この地域が舞台である独自性がなくなっていって、それは別にこの作者とかお話が悪いんじゃなくて、人間の思い描き実行できる「悲惨でむごたらしい過酷な現実」は驚くほどヴァリエーションがないんだと思った。人間が実現できる思いつく限りの悲惨なことが画一的なのは人間の想像力の限界なのかも知れない。幸せの形は人によって違うんだろうけども、不幸にはあまりヴァリエーションがない、分かりやすい。誰が見ても絶対的にその体験は不幸なんじゃないかと思える状況というのは簡単に提示できるんだなあって、それはよくよく考えるとおかしなことなのかもしれないなあと思った。例えば私が先ほどまで読んでいたユーゴスラヴィアという国に60年くらい前に起こっていたことが現在ガザ地区で起こっていることやイラクやアフガンで起こっていることだとして提示されても、舞台設定をちょっとだけいじればそれほど違和感なく読めるんじゃないかと思った。
チトーのカリスマ性についてはこの漫画内ではあまり触れられてませんでしたけども、善かれ悪しかれカリスマにもたれかかっている共同幻想体は驚くほど脆い。だから、今、国家としてのキューバ北朝鮮、宗教団体としての創価学会の「その日」と瓦解の仕方に思いを馳せている。出した固有名詞には他意がなく、今パッと思いついた国家や団体がそこだったというだけです。
最近、ユーゴスラヴィアという国がどうやってできてどうやって消えていったのか、が心にひっかかっていて、それを知ることができるかな、と思って借りてきたのだけど、そういう漫画ではなかった。が、戦時中に主人公達が「なぜ生きるのか」をひたすら自問自答していたけども、戦争が終わったら、「その戦争を生き抜いたこと」自体が生きる理由になるんだと思った。
登場人物にネンネで汚れていなくて世間知らずのお嬢ちゃんがいらして、「あの悲惨な」強制収容所の生活でさえネンネっぷりを発揮していて、他の女性の登場人物は皆汚されていくのにこのネンネの嬢ちゃんだけは何があろうともむしろ汚されないことが罰のように徹底的に守られるし人間性も失わない。私がもっと若かったらこの嬢ちゃんに対して憤っていたのでしょうけど、今はこの嬢ちゃんが汚れることなく戦争を生き延びたことを喜んでいて、私はこの嬢ちゃんに自分のある部分を投影しているのですね、で、その部分を持っているが故に人生をうまく渡れないと思っていてある年齢までその部分をグルグル厳重に閉じ込めて武装していたのですが、どこかでポンとその武装を解いちゃったんです。そしたら自分にこの嬢ちゃんのような部分が残っていることに心底ほっとして、自分が生きる理由も「戦争を生き延びた人」と変わらないくらいにはあるんだなあと思ったよ。
そもそも「生きる理由」なんて考えるのが傲慢かなとも。生きる理由なんてなくて当たり前なんだと思うよ。そんなもん持ってしまった人はその理由を受け入れて一生生きていかなければならないけども、それがないなら、無理に理由なんか見つけないでただ生きてればいいんだと思うよ。
「神様を信じる強さを僕に」というフレーズがありますが、「神様」なんていびつな幻想を信じるにはそれを否定しにかかる人々や物事に耳を貸さなかったり心を動かさなかったりする強さがやはり必要なんだと思いました。「神様」という概念を人間が発明したのは優れた処世術であると思った。「神様」のイメージの多種多様さに比べると「戦争」のイメージのヴァリエーションのなさはやっぱり異常。
そもそも私がユーゴスラヴィアをもうちょっとしっかりと捉え直してみたいなと思ったのは「わかりやすさ」のうさんくささと対極の「わかりにくさ・複雑さ」の生々しさをその地域の事情として抱えているからです。元来「わかりやすいこと」はそうそうないはずなのにわざとわかりやすそうな顔をしているものが多すぎる、だったらもう事象として「わかりにくさ・複雑さ」が隠し通すことが全くできず露骨に目に見えている所について考えた方が一旦「わかりやすさ」の裏に隠れている「わかりにくさ」をほじくる手間を省けていいんじゃないかと。
それで、まだ新しい号読んでいないけど小沢健二が「うさぎ!」で主張している人間と灰色の戦い、でも最終的には人間が勝つよ、と言い放つ根拠は「神様」と「戦争」のどちらにより人間の想像力がつぎ込まれているか、ということとも関係しているのかなと思いました。
うさぎ!」に込められているメッセージもそう簡単なものではないし結構な切り口からアプローチできるようになっていますが、私は純粋に「うさぎ!」を文学として文学者の目で捉えているというスタンスは表明しておきます。