えぐられた

これの前のエントリ書いた後、結局12時間以上かけて460ページある「私小説 from left to right」一気読み。
途中で読みやめることができなかったのは面白かったのはもちろんだけど、一旦区切ってこの本を読むリズムを崩したくなかったのもあるというか、この恐怖を何日もひきずるのが怖かったからだと思った。
私が今まで経験したことの中で、皮膚感覚で一番恐ろしかったのは、日本語から離れた所で日本語を使える人間が他にいない所で生きるということで、そして日本語は日本以外の国ではマイノリティの言語だから日本以外の国にもう一人では行きたくないとたった2,3週間の経験で思ってしまって、成田に着いた瞬間の何処を見渡しても日本語に包まれているという今まで当たり前だった事実が非常に心に沁みて、日本語を使う者達が共有している世界観というのに戻ってきたという安心感でいっぱいになり、海外にいって発見したものは結局のところ「日本語」だった、というどうしようもないオチが待っていて、もう二度と海外に一人では行けないと心から思った。初めての海外が一人じゃなかったらそういうことにはならなかったのかも知れないですけど、とにかく私は日本語に包まれていない異文化に文化を共有しているものと切り離され一人で放り出されることが何より怖い。
そんな状況に20年間も置かれた人間の「私小説」など恐怖以外の何者でもなかった。日本社会のぬるま湯から切り離された人生など想像したくないがそこに広がっているのはそういう世界で、そういう世界にいてやっていることが私の2,3週間の経験と同じようにとにかく日本文学を読んで日本の音楽を聴いて対抗というか抵抗というか自己防御するという手段をとっていて、あの2,3週間が20年も続いているなんてそんな恐ろしいことを淡々と読みやすく感情もコントロールされている文体で描写されると、その恐怖に固まり、泣くことすらおぼつかなくなります。
場所がアメリカというのもいけなかった。私は英米文学にあまり興味を示さず生きてきたと思っていたのだけど、英文学に属するシェイクスピアやブロンテ姉妹にはそれなりに目を通してきていたことは、この小説を読んでいるうちに思い出した。それに引き換えアメリカ文学といったら!若草物語はそりゃ読んだけども、他に私が読んだアメリカ文学というものがついぞ思いつかなく、英文学と米文学の違い、というか、アメリカという国にとって文学はさして必要のないものであるらしい、という事柄が透けて見えて、あの国はどうやら徹底して実学重視のようなんです。ピューリタン文化にとって食事や文学はどうでもいい扱いを受けるらしいのです。映画を見てもドラマを見ても文学や漫画にしても、思いつくままに印象に残ったシーンを語る時、非常に食事について語ることが多い私にとって、そんな国で適応しようとしまいと生きていかなければならない状況に置かれた文学少女の20年は重かった。この小説によると「文学少女」という日本ではごく当たり前に使われる概念が根付いていない国がアメリカなんです!これほど怖いことはないよ!文学が一定の価値を持ち食事にもこだわる国で2,3週間過ごしただけでもあれだけつらかったのに!怖過ぎて涙を落としたら気が狂うと思って我慢して、それでも文章は淡々と続き、まだ私はこの文学世界から解放されないのかと思うと解放される時間を一時でも縮めたくてとにかく読み進め最後のページに辿り着いた後、爽快感や淋しさは全くなく、解放された喜びを味わうこともなく、倒れ込むように寝た。私は物心ついた時から長いこと本を読み続けているけど、これは初めての体験でした。
そして恐怖をひきずりたくなくて、今ここに吐き出している。横組の文章の読みやすかったのもいけなかった。私達の目はPCや携帯で文章を読んだり書いたりする時に基本的には横組だから、もはや縦組の文章を読むのが大層疲れる行為であることにも気付いてしまった。縦組の文章を綴る時のバランス感覚を失いつつある私はもう縦組の小説は書けないなあとわかってしまった。生粋の日本育ちで日本文学育ちなのに、漢字とひらがなとカタカナのバランスが縦組だとおぼつかないのでした。そのことも怖かったです。私が自分の書いた小説を出版する所までこぎ着けたとしても、それを縦組に組み替えなければならない、という事態に遭遇してしまったらと思ったら存外の恐怖でした。PCで横組で文章を書くのがデフォルトとなってしまった今、縦組だとすらすらと文章を書けないのです。本当に何も思い浮かばなくなってしまうのです。ショックでした。

そもそも460ページ一気に読ませる筆力って尋常じゃない。どれだけこの人は飢えていたのだろうか。飢えた人間じゃないと書けないものだった。飢えた人間に食われてしまうのはしょうがないことであった。戦災孤児の生き様を見せつけられて鈍感であるものは文学者になり得ない。彼女は「姫」であると同時にまぎれもなく戦災孤児なのでした。
この後水村美苗が「嵐が丘」を題材にした小説を書くのは必然であると思った。いつか読むけど、今はまだインターバルが欲しいです。