文学のパーティールームから遠く離れた書斎にて

前々から気になっていた水村美苗の小説をフラっと入った街の本屋で売っていたので買いました。

私小説 from left to right (新潮文庫)

私小説 from left to right (新潮文庫)

パラパラっとめくって目についた所を読んだだけなんですけど、その文体に潜む暴力的なまでの王道な孤独が容赦なく襲いかかってきて抵抗する術もなく心臓鷲掴みにされて揺さぶられて、サブカルで固められている自分のメインカルチャーに対する耐性の無さというか、本気でメインカルチャーにとりかかっている人が腹を割って自分に対して有効な訴えをしてきた経験というものは初めてでしたので、とにかく驚いているし今もまだ動悸が激しいままだ。
文学というものに対して王道メインカルチャーからここまで真摯にアプローチされると、自分の態度は所詮軟派なサブカルチャー視点からしかできていないし、これからもそれしかできないなあ、という絶望感にさきほどからしばし襲われていたのですけど、よくよく考えるとこれは幸運なことで、こういう人がいてこそサブカルチャーからのアプローチが有効だという事実にもさっき気付いたので、私は私のやり方でやっぱりいいや、と、いつも通り人一倍衝撃に弱いのですけど、人一倍立ち直りも早いという打たれ弱いのか打たれ強いのかよくわからん感じでいます。
ものすごく強固な地盤を持っていてそこから問いかけられる根源的な真摯な課題に挑む小説というのは実は現代日本文学の空白の部分であり、それを今書くことができる人は太平洋を挟んだ彼岸にいる人である、という構造は面白いとは思いますが、それは小説家の仕事じゃなく批評家がやることなので私は面白がるだけで自分ができることだけをやろう。こういうテーマをドンと据えることができる人がいて初めてオブリガートが生きるので、私はここまで地頭がよくないのだから頭よく見せたがることをやめようと思った。10代からアメリカ在住でイェール大学で仏文専攻、旦那は高名な経済学者、そんな人間にはなれないし、なろうとも思わない。なったとしても自身のパーソナリティとの乖離で破綻するだろうから。
水村美苗漱石に傾倒した、そしてデビュー作が「続・明暗」というのはその文章に少し触れただけだが触れた瞬間に理解したなあ。日本語と英語の狭間から生まれ出る文学、とかそういう意味じゃなくて、いやそういう部分だってもちろんあるのだけど、それ以上に漱石メインカルチャーで王道の人だ。だから私は漱石を読んでいるとこんがらがってあんまりしっかり読めてないのだけど。
私が昔から好んで読んでいた坂口安吾松浦理英子、そして今面白く読んでいる大江健三郎メインカルチャードロップアウトして甘ったるい日本的情緒に包まれた意味合いでの「落伍者」であるのです。
そういう甘ったるさが水村美苗には全くないし、漱石にもそれを装ったきらいはあるかもしれないけど、本質的には多分ないだろうと思う。
とにかく私もそこにどっぷりつかっている「落伍者」の甘ったるさを痛感して大変にヒリヒリしました。それを断罪していないから余計痛かった。日本文化の中にいる限り私達は甘いんだろうなあと思う。いい悪いじゃなくて。だからといってその外に出ろと言われているわけでもないし、出たところで何かできるかといったらそれこそ無力感で野垂れ死にするのがいいところかなあとも思う。
私は何度も高校時代に松浦理英子の小説を読んで自分に見える風景が変わったといってますけども、私の友人には高校時代に水村美苗の旦那である岩井克人の著作を読んで感銘を受け、現在アメリカでメインカルチャーの研究をしている人がいて、彼のことをふと思い出しました。彼は私と同じものに触れていても、水村美苗や多分そのパートナーの岩井克人のようにメインカルチャー視点からアプローチしていたんだなあ、私のサブカルチャー(言い換えると甘ったれたプチブル落伍者)視点とは交わっていないのだなあと気付いた。メインカルチャーに立ち向かう人の眼差しはいつも厳しいがたまに触れると刺激的で気が引き締まる。まあ15年くらい前の日本の端っこの小さな街の高校生としてはどっちの視点であろうと「変わり者」の一言で済まされますけどね。しかも当時はないものねだりで私はメインカルチャーの住人に将来なりたかったし、彼は彼でサブカルチャーに憧憬を抱いていた節がある。そういう関わり合いが面白いから一生この人とはつかずはなれずで付き合いがあるんだろうなあと私は思っているのだけど、向こうはどうだろう。
私の資質に水村美苗みたいなところがあればもっと近づけたのだろうけど、そんな気配はみじんも自分から感じ取れないので、落伍者は落伍者なりにメインカルチャーという巨木の周囲を中途半端にいろんな花に首を突っ込んだために身にまとった花粉と共に徘徊していようと思います。