何も言えねえ

2/9の月曜日にギエムのボレロ見に行ったんですけど、低温火傷みたいにまだジワジワきてるどころかその感覚が強くなってすげえです。
夢見心地、というのとは逆で、どんどん覚醒させられていく感じですげえです。
ゆうぽうとホールからの帰り道、体に植え付けられたボレロのリズムで歩かないといけないというか、そうじゃないとおさまりが悪くなって困った。私、ずっとあの曲、知識として四分の二拍子っていうことはずっと知っていてもどうしてもいつの間にか三拍子になっちゃって困ってたんです。なんか私の生来もっているリズム感が三拍子がとりやすくなってるみたいで、これほんと昔っから三で割り切れる曲の方が楽に演奏できた。でもね、ギエムの拍子の取り方がしっかり強弱踏み分けた四分の二拍子だったみたいで、それがあの20分弱の間に体に刻み込まれて、結局ずっと四分の二で歩いてました、というか今でもそうです。BBL見に行った後にはこうならなかったんで、きっとこれがギエムのすごさなんだと思います。*1
腕のしなりが阿修羅みたいに見えた、とか、ここぞという時のリズムのあおり方、ラストの待ち構え方とかもうほんとすごかったですけど、見終わって世界の見え方が変わった、それが一時的なものではなく、すっきりいらんものを洗い流されたという感覚で、ぽろぽろいらないものがはぎとられていって剥き身にされたようで、いやまだ剥き身にされる作業の最中で終わってない感じで、でもそれがあの儀式の持つ意味なんだとも思い、私もまたギエムのような肉体を持ちたいと思いました。
自分の戦う場所であの肉体を持ちたいと思いました。また、あのスタイルを目指してもいいと思いました。私が私の戦う場所で持つ肉体というのはバレエでいうとフェリのようなスタイルなのだろうか、と思ったりしたこともありましたが、ギエムを目指してもいい、とゆるされた気がしました。やっとそこまでたどりつけたと思えました。
ギエムのあの姿は、マゾヒストが求める究極の支配者だったと言いきりますが、その究極の支配者こそが究極のマゾヒストであるということも思い知らされました。
すごかった、ほんと。
次にどういう振付けがくるかその場にいる誰もが知っていて予測できているのに、まるで初めて見たような新鮮な驚きとアドリブであるかのように自由である、解き放たれている動き。基本に厳密に忠実で正確な型こそが何よりも自由である、という概念をあそこまで見事に体現してるのを初めて見た。というか、人間はあそこまでできるのか、と驚いた。そこにこれがくるしかない、という振付けの意図、それをあまりにも忠実に体現するとこれほどまでに自由に見えるのかと驚いた。そこに1ミクロンたりともそれずに型を置くことによって、初めてその自由さが生まれる。それこそが振付家の意図だったのか、とわかる。どうやったらああやって再現できるんだ。ダンサーと振付家の信頼関係というよりも、よくこんな拮抗する才能が出会ったもんだと驚いた。拮抗する才能が激突しているわけじゃない、自分の持ち場で自分ができる最大限の仕事をしているだけ。それがどれほど困難なことか。操っているけど操られている、この関係が多重構造になっている素晴らしさとあり得なさ。簡単にポリフォニックといっちゃいけないくらいのあり得なさ。
誰よりも素直で誰よりも真面目で誰よりも繊細で誰よりも強靭で誰よりも練習して誰よりも才能があって、というのが舞台に全部出ていた。異形のこわさ、それに触れた時、人間はどういう畏れの感情を抱くのか、と改めて知った。このこわさから目をそらしたくないと思った。そらしたら戦えない。戦う道を選ぶものが目をそらしてはいけない。決していけない。負けたくないと思った。私も異形になりたいと思った、異形として生きて行く覚悟をしなきゃいけないと思った。だから目をそらしたくなかったしそらしちゃいけなかった。

メロディに恭順なリズムもよかったです。メロディが動かしてるかのようにほんとに息の合った動きで、あれ、呪術で動いてるわけじゃないんだよな、と今こう振り返って初めて気付いた。そのくらい揃ってました。全部あれ人間がやってたんだよな、そういう意識なかったわ。
ほんとすごい儀式でした。NHKのカメラが入っていて3/20に放送予定とからしいので(多分、教育の『芸術劇場』)みんな高画質で録画するしかないと思います。

これからはあの舞台から受け取ったメッセージを妥協せずに実践して生きていきます。本当にあの場所であのステージを作り上げた皆様、ありがとうございました。

*1:追記ですがこれ勘違いでやっぱり拍子は4分の3だった。踏み分けの仕方を正確に書くと6つでひとかたまりなんだけどその表情が6つ全て違うため2でも3でも割り切れるようになっていたということです。