狂気の標

今CNN見てたらシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラがロンドン公演してる映像流れてて、ついこの前日本でやってたのと同じノリでそれがなんだか嬉しかった。BS-hiかな、地上波の芸術劇場でやってる他にこのオーケストラの母体のエル・システマ自体のドキュメンタリー特集をやってたんだけど、それが音楽ドキュメンタリーとか教育ドキュメンタリーというより宗教ドキュメンタリーを見ているような気になって、私はベネズエラという国をよく知りませんけども、日本から高みの見物してるだけじゃ到底わからない現実があるわけですよね。その到底わからない現実はあまり映さないで(たぶんあえてそういう要素を排除してる、だが完全に排除しないでにおわすことはあった。なぜならそっちの方にもっと足を踏み入れてしまうと違う性質のドキュメンタリーになってしまうけれどもにおわせなければこの特集の本当の意図は伝わらないからだろう)、指導者と子どもたちの交流に着眼してる作りだったんです。指導者と子どもたちは出身階級が違うのだろうけども、そこもあまり触れないで作ってたんです。高校生の時、宗教の時間などによく見せられた『ある修道会があります→崇高な志を持った指導者がいます→その指導者のもとに集まった精鋭たち(修道女・修道士・神父など)を荒れ地に派遣します→その地でまだまだ困難はありますがある程度成功しましたしこれからも希望をもって課題と戦っていきます』というテンプレを持ったドキュメンタリー(それは例えばマザー・テレサとインドのような遠くの話)と、よく見知った空気や音(クラシック音楽という自分が経験してきた話)がまざりどうも変な心持ちで見てしまいました。ですが、私の心持ちを差し引いてもとてもよい番組であったと思います。かの団体には沢山の問題や輝きがあり、2時間やそこらでまとめるにはそれを全部伝えきれないからある角度からのみにしぼったというだけであり、そこはまずおさえなければならない王道であり、まずこれをやらないとその奥に控えてる問題には入っていけない、そういう入門編がやっと作られたというところなんでしょう。グスターボ・ドゥダメル(ちょっと中上健次似)の現在のクラシック界での受け入れられ方は、それこそ中上健次の日本文壇での扱いと似たようなもので、『中南米』という『神話』の中からやってきた人物、という扱いだと思うのですが、かつて私達の国から飛び出してフランスやドイツやアメリカで武者修行していた小澤征爾という人もこういう受け入れられ方をしたんだろうと今理解しました。『こちら側』の視点だとそういうことは気付かない。私達の社会は彼とその後続の奮闘により『あちら側』も獲得したんだなあとただ頭が下がります。『あちら側』の卑しさを知って初めて『こちら側』の尊さがわかる。

今年は2月にあの儀式を見てからというもの価値観がどんどん変わっていき、あれだけ嫌いだった百合の花を受け入れることができ、その代わり桜の花に狂気を見出し遠ざけるようになってしまった。

 家でパソコンを開くと、妻からメールが届いていた。その時期妻は体調を崩して病院にいたのだが、その日の昼間、花見で桜を見て更に体調を崩し精神的にも不安定になったと書かれていた。桜にあてられたという感じだろうか。それで、近所の花屋で元々自分が好きな花である薔薇を買って病室に飾ったらようやく気持ちが落ち着いた、というものだった。
 妻からのメールを読んで、私もその日の昼間の花見の場面を思い出した。
 (中略)
 一万人の熱狂、恍惚とした首相*1、そこだけ満開に咲いた桜。それはある種、異常な光景に見え、確かにバランスを失いそうな感覚を持った。
 妻のそのメールを読んでいて、唐突に中沢さんとの対談の言葉に思い当たった。
 「かつて日本人が表現していた死」
 それこそがあの満開の桜なのではないだろうか。
 「満開の桜の下」。坂口安後のその小説『桜の森の満開の下』は満開の桜が人間を狂気に導き、殺人へいたるという物語だった。そこにはたしかに殺人による恍惚が描かれていた。
 桜の下で、大衆に向かい、散る美学を語った首相。日本人が愛する桜という花は戦さの象徴でもあった。美しい桜の散り際。そこに重なるのは武士道という言葉。「武士道というは、死ぬ事と見付けたり」(『葉隠』山本常朝)。その後ろには桜が咲いている。
 桜は死の花ではないか。春、四月。今の日本はまさにそのイメージに包まれているのではないか。
 桜は狂気も、毒も、その美しさの中に含んでいて、その表現は隠している。しかし我々の潜在意識はその狂気と毒を感じ取ってしまうのではないか。だからこそ妻は桜を見てバランスを失ったのではないか。
 それでは何故、妻は薔薇を部屋に飾って落ち着いたのだろう。それを考えて私は再びハッとした。薔薇がその棘によって、自分の中の毒をきちんと表現しているということに思い当たったからだ。薔薇は正直に自分の毒を提示している。美しいだけではなく、人を傷つける危険性があることを示している。だからこそ妻は薔薇を信頼し、桜によって失ったバランスを取り戻すことが出来たのではないだろうか。

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上記の本からの引用ですけども(あと一緒にのっけてる映画はこの引用部分の直後あたりに出てくるのでメモがわりです)、これ、太田光の『幕間 桜の冒険』という文章なんですね。太田光の妻が桜の狂気にあてられ薔薇にすがった話が印象に残っていて読み返したんだけど、初読の時にわからなかった感覚が今はわかる。私は百合の花がずっと嫌いで、それもやっぱり高校時代の体験に凝縮されるんだけども、象徴としての『百合』とその実体の違いが許せなかったんです。百合の花、とりわけ毎日みていたカサブランカは自分のおしべとめしべを露に出し、粘液も見せつけ周囲に黄色い粉とにおいをまきちらす。そんな花に『純潔』だの『無垢』だのを象徴させる意味がわからなかった。こんなに周囲に粉かけてムンムンしてる花のどこが純潔なんだと。垂れ流してるもの色々。あまりにもそれそのものなんだもの。自分の中にあるそういう部分を許せなかったのでそれを見せつけられるのも許せなかった。下品じゃないかと、なんでこんなのを上品ぶった人々が持ち上げるんだと、もっと花そのものみて蔑めよと。
長い間その気持ちは私の奥底に巣食っていました。でも、実体と象徴を切り離して見たっていいんじゃないかと思ったら、百合の花を受け入れることができた。その本質を見ず、象徴の部分、それは『神話』ですけど、その『神話』にとらわれない視点を持てるようになった。そして今私は百合を受け入れ桜をちょっと遠ざけているけども、それも桜の本質というか実体を遠ざけてはいない。その『神話』に酔う人々が嫌だなあと思う。
例えば、私はゴキブリにまつわる『神話』を実感として伝えられる文化に育っていないのです。マンガやテレビなどで大げさにリアクションする人々を見てはいたけども、頭で理解しているだけで心は浸食されなかったんです。東京に出てきて、ゴキブリという実体を見てもそれはただの虫の一つであり、虫を苦手だという程度には苦手だけれども、ゴキブリ自体を特別視はしないんです。単語を見るだけで嫌とかゴキブリに対する『神話』を吹き込まれたり過剰反応を生み育む文化を生きなかったから。だから皆がなぜそこまで恐れるかわからないし、結局異常に怯える人が大多数の中では冷静に退治するんです。それだけで英雄視されるんです。なんかおかしいだろ、とは思えど、そこに『文化』の本質を見ます。そして私もこの人達と大多数の『文化』を共有しているんだろうと。『文化』というものの怖さと滑稽さをゴキブリに出くわす度に感じます。私の退治の仕方はやっぱり普段の私と同じで不器用であり、そこら中にスプレーを撒き散らかしギットギトにしちゃって中々当たらないなあと思いながらやっとこなんとかしとめるとティッシュにくるんで潰してゴミ箱。これ他になんか嫌な虫がいたらやるのと一緒でしょう。そしてその虫がそんなに文化として『害虫』と認定されていなかったらその私のやり口を不器用だ、汚い、虫が可哀想、殺すにしてもこんなに大規模にやり散らかすな、などと文句の一つを顔に書いている人もいるんです。ただ、それがゴキブリという対象になるとまるっきり話は違ってきて、『ゴキブリを退治できる勇気のある女子』と、私はジャンヌ・ダルクか?というくらいその瞬間は賞賛を浴びるんです。たまたま私がゴキブリにまつわる神話や文化を共有していないというだけで世界はこれほど見え方が変わる。というか『私』という人間の見方を変えられてしまう。ここでゴキブリゴキブリと散々書いていることに対して非難すら浴びそうなくらい忌み嫌われているゴキブリも、全くその反対の評価を得ている桜も一緒です。皆、ゴキブリ本体を見ていないように桜本体も見ていない。その本体を通し『ストーリー』を見て感じて嫌がったりありがたがったりしている。桜の花自体は今でも嫌いじゃないです。ただ、その花が咲いた途端、人々の気持ちが不安定になり、社会も不安定になり、パワーバランスが歪む、そのことにあてられて気持ちがざわつきます。桜は日本人のDNAとかふざけたことを言い出す人いますけど、DNAだったら日系として桜の文化から遠く離れたところで育った同じ人種の人々にも感覚は共有されるべきですが、その感覚は蒙古斑のように共有されてはいない。ただの私達の社会が生み出し語り継いできた物語の一つでしかありません。なぜか大事に受け継いでしまった物語。ゴキブリを忌み嫌い桜を尊ぶ物語。この物語を共有するのが日本人です。それは百合の花に純潔を見い出し受け継ぎ語り継いだキリスト教という集団があるように、ただのそういう集まり。百合の花本体のあのストリップ加減を見ずただ『純潔』だと声高に叫ぶその文化に乗れなくて百合の花自体を嫌いになった私も滑稽でした。同調圧力におかしな形で屈したということです。でも、一本であれだけ自己主張する、自分には性器がありそれを堂々と突き出し受粉の相手を求めているとあんな形で立って訴えている力や強さは美しいと今は思います。そんな強さを妙な物語で覆い隠そうとするのに覆い隠し通せない強さがいいなと思います。昔も今も百合の花に純潔を感じることはありませんが、『純潔であるかどうか』、とは無縁の見方でこの花と向き合うとかっこいい花だと思い、こういう花になりたいな、と思えるようになりました。花にも虫にも罪は無く、それはただ物語を受け継ぐ人間の罪なのです。物語を語ること、それ自体の怖さに無自覚であることがたまらなく怖い、自分の物語を強制することは決してやってはいけないことだと最近とみに思います。

神話と実体、そしてそれにまつわる行動については、ウーゴ・チャベスエル・システマチャベス政権になり大幅に予算を得られるようになったのだろうと推測している。なので、私は音楽を愛するもの、音楽を永らく自分の問題から逃げるための道具としてしか扱っていなかったためにこれからの人生はその音楽への罪滅ぼしをしなければならないものとして、その観点でチャベスを支持する)と小沢健二とA.K.I.、ユダヤ人の作り出したイスラエルホロコーストの幻影としてのガザ、なども語りたいことではあるのですけど、それはまた今度。参考文献などだけ置いておきます。

チャベス―ラテンアメリカは世界を変える!

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DO MY BEST

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*1:引用者註:2006年4月現在、なので小泉純一郎