追悼公演にいくつもりじゃなかった

marginalism2010-05-30

チケットをとった時はそんなことになるなんて思ってもなかった。癌だったとしてもそんなまさか早く亡くなるとは思ってもなかった。そんな『ムサシ ロンドン・NYバージョン』ですが、19日くらいに見に行ってました。そっから風邪引いて寝込んでた。
井上ひさしの言葉遊びみたいなのは人間の身体を通して初めて「生きる」ものなんだとわかりました。あの人は徹底的に小説家ではなくて脚本家だったんですね。小説家は文体で全て完結させなければならないけれども、脚本家は生身の身体を伴って初めて起き上がり沸き立つ文章を書かなければならないという違いがとてもよくわかった。だから彼の脚本を用いた演劇が上演され続ける限り井上ひさしは死なないんだなと思った。
藤原竜也という人を私は伝聞でしかよく知らなくて、演劇はもちろん映画でもテレビドラマでも「演じる」という本業に関しては実はあんまり見た記憶がなくて、ただその伝聞や活字媒体で目にする評はものすごいことになっていたので、ほんとにただ純粋にその伝聞の真偽をこの目で確かめてみたいという興味だけでお芝居見に行きました。
ただ立っている姿だけでなんでこんなに違うんだろうね。飽きない。あー、これ見るために毎日通う人がいてもおかしくはないなあって、なんかうっかり泣きそうになった。実際は泣かなかったけど、なんで泣きそうになったかはわからない。
周囲が騒々しく動き回る中、藤原竜也はただじっと宮本武蔵として立っていました。その受けの芝居の説得力が宮本武蔵でした。受けきってた。包容力はんぱない。
タイトルロールなのにほとんど前に出ない、という舞台はついこの間の『ヘンリー六世』の上川隆也の扱いと近いものがあります。その『ヘンリー六世』を見に行った日に見かけた藤原竜也はやっぱりあれ本物だったんだ、って確信できる芝居でした。あの日のヘンリー六世として立っていた上川隆也の苦心の跡って観た後2,3日経ってからじわじわくる感じだったんですけども、藤原竜也は自分の宮本武蔵に必要なものをそこから簡単に盗み取って自分のものにしちゃってたんだと思ったんです。タイトルロールなのに引きのポジションで、でも周りの芸達者に呑み込まれないで存在感を示すっていうのを、この人はもちろんものすごく仕込まれたり稽古してたりするのもわかるんだけど、それ以上のものでいとも容易く自分のものにしちゃってるところがある。頭越しにポーンと捕まえちゃってる。「板につく」とか「役者が違う」って慣用句がなんかもう感覚で納得させられてしまうというか、どうしようもなく天才すぎて笑うしかない。こんな人よく見つけたよね。舞台の申し子だのなんだの何も知らなければ軽くヒくくらい大仰なキャッチフレーズが並ぶ人ですけど、そんな程度じゃ足りねえよ、もっともっと修飾した華々しいキャッチをつけてやれ!と観た後はちょっと怒るくらい思ったね。これはもう寵愛されて当然だろう。いや寵愛しなけりゃそいつはどんだけ鈍感力が発達してるんだ、と、もうね今更過ぎるだろうけどね、軽い気持ちでいったら打ちのめされて斬られて這々の体で家に辿り着いた。
私が受けるこの感覚はちょっと知ってると思って、バンクーバー五輪後のチケット争奪戦の激しさは、あ、私と逆コースでここからあっちに流れてる人絶対一定数いるな、とも確信した。同じようなタイプの魅せ方をするんで、ファン層はかぶるだろう、そして本人同士が交流していることもむべなるかな、と腑に落ちた。

帰ってきてから風邪引いてるから寝込んでるんだけど、ガツンとやられて涙も出なくて、ただなんか軽く読める本読んでました。

ボクらの時代 自分を「美しく」見せる技術

ボクらの時代 自分を「美しく」見せる技術

そんなに古い本でもないと思うのだけど、ずいぶんここから皆さん状況動いたなあと、意識が遠のいたり近付いたり空間が歪んだり自分の位置がわからなくなったり、それは風邪のせいだけなんでしょうか。

蜷川幸雄の舞台観に行くと「覚悟はできているか」と常に突きつけられているような気分になって、その度に私は「覚悟ができているから、今はまだ動けない」と答えを出しています。この根源的な問いを受ける感覚が嫌いじゃない、というか、たまらなくゾクゾクする、その問いのパワーに気持ちは負けてないんだけど体力で負けてしまうから、結局まだ準備が出来ていないと証明されるんだけれども、実際に何が問題かって体力が一番問題だということまで教えて下さるのでとても有り難いなあと頭を垂れるほかはない。

頭を垂れっぱなしでいたら風邪治りかけの時にオザケンライブで岡崎京子来場でまた処理能力を遥かに超えてぶり返した。

昨今の小沢健二の文章のあまりのひどさに見切りをつけて斜に構えていて、いつライブだったのかも知らなかったし、王子様同窓会に集う人達と何かを共有できる気もしなければ水を差すつもりもなかったので全く気にしていなかった案件なのに、そのことでいきなり身体に染み渡った過去が甦って泣けて泣けてしょうがなくなって、昨今の小沢健二の活動と文章のうさんくささに対して斜に構えている私と似たような立ち位置ながらもライブのチケットが取れて行くことになってる友達が一人だけいて、その人の評価だけはきちんと受け止めて、本当に踏ん切りつけるかどうか決断しようと、ツイッター待機リロードを実はものすごく繰り返していて感想待っていたら、彼に「あなたはつまらない意地をはってないでみにいけばいい」というようなことを言われたので、心がほぐされた。
そっから一気に情報漁っていたところ、この国の大衆音楽の一部であることを嬉しい、だか誇りに思う、だかMCで言ってたみたいで、それで途切れていた部分やいぶかしがっていた部分の欠片が結構埋まった気になった。同窓会会場に集った元オザケンギャルさんたちの戸惑ってる反応と友人の斜め上にすごいことになってる異様なものを見た、という肯定的な興奮が伝わってくるレポートにより、何よりポエトリー・リーディング的なものを披露していた、ということにより、俄然その場に立ち会いたくなりました。
小沢健二bothttp://twitter.com/kenjiozawa_bot)をフォローしてて思ってたんだけど、小沢健二はもう徹底して歌詞の人、というか、吟遊詩人なんだと。140字で全く色褪せないというかむしろこの長さに凝縮されてる人なんだから、散文書くとグダグダになっちゃうんだと、詩人に小説を書かせてはならないと、散文はもう俺に任せろ、だからお前は詩だけ紡いでろ!と説得したくなっていて、その当人がポエトリー・リーディングをコンサートに組み込んだと知ったからには、もうそれは安心というか、それだけやってろ、というか、借り物の音楽にオリジナルのどこにもなかったような歌詞を載せて融合させていた力技が小沢健二の最大の魅力だったように感じ始めてるところだったので、私はその場にいなかったけど、でもとても嬉しかったです。

詩人っていうのは音楽的センスが問われる才能なんですよね。高橋源一郎が現代詩壇を相手取って挑発ツイート連発してましたけども、そこで川上未映子の『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』は絶賛していたのだが、川上未映子も音楽やってる人でしょう。現代の詩人、詩の才能がある人はたいていシンガーソングライター及び作詞家など音楽業界に属するようになってるんじゃないかというか、詩と音楽を分断してしまった時代というのがいつなのかちょっと私にはわからないのだけれども(「現代」になったのはその瞬間なのだと思うのだけれども)、現代詩(口語詩)を弱体化させた正体というのは音楽的なものを排除してしまったからではないのかと思ったのです。音楽のメロディの力は強いからそれ単体でも成立するのだけど、そこに乗せられる言葉はメロディと喧嘩しない優しさがある。その優しさが「詩」なのだろうけど、優し過ぎて単体だと生き残れないか弱さもある。たとえそれがヒップホップだのラップだのでもそう思う。その内容じゃなくてもっと根源的な性質のことを私は今指摘してるから。メロディと喧嘩し始めたらそれはもう散文であり、言葉のみでメロディ自体を奏で始めたらそれはもう小説なんです。音楽あっての「詩」、舞台あっての「脚本」と違って、単体で言葉が生き残ろうとしたら「小説」になるしかないんです。「詩」や「脚本」は教科書に載って、ただ言葉だけが印刷された時に違和感のないものであってはならないんだと思うんです。そこまでの強度があるとそのジャンルのものとしては失敗だと思うんです。

ひとこと「物書き」と言っても、その中で適性のあるジャンルはかなり細分化されているわけで、自分にある才能がその中のどれなのか、はっきり見極めなければならない、と、ざっくり「物書き」やってた小沢健二に私はただ伝えたかった、と自分が言葉だけで完結させる世界に属する人間だからものすごく憤っていたんだと、寝込んでいる数日ではっきりわかって心が澄み渡りました。中2で出会ってから初めて、小沢健二とやっと対等の目線を獲得したような気がします。

あと、岡崎京子騒動に隠れて報告されていた相模大野初日小澤征爾目撃談に張りつめていたものが一気に解けたというか、もっとみんなそっちも報告してよ!同じような時期に癌発覚した井上ひさしが死んじゃってめっちゃ心配してたんだよ!小澤征爾がこの国から消えたらこの国の文化どうなるんだ……サイトウキネンだって本当は復活できなかったりするんじゃないか……って不安で不安でたまらなかったんだよ!とりあえず甥っ子のライブに行けるくらいには回復してるんだ、ってめっちゃ安心して涙ぐんだよ!

ちょっと前にマーラー「悲劇的」ハンマー聴き比べ動画を見てたら、一番これが音のバランスすっきり整理されてるんじゃない、と私が感じたのが小澤征爾Ver.で、ああこれが小澤家の音か、と妙に納得したのでお暇な方はどうぞ。(49分52秒ある)(小澤征爾のは確か相当後の方だった)(ヲタなので面白かったけど、ヲタじゃない人が面白いかどうかは全くわからない)


http://www.nicovideo.jp/watch/sm8339571