わかりにくい「明快」、わかりやすい「難解」

marginalism2010-06-19


この間、フィギュアスケートからバレエに転向して最も成功したダンサーことアナニアシヴィリの『ロメオとジュリエット』(ラヴロフスキー版)テレビで見た数日後にヴッパタール舞踏団(もちろんピナ・バウシュ振付)の『私と踊って』を観に行ったんです。

シルヴィ・ギエムの身体にはやっぱり体操選手だった名残があるように、ニーナ・アナニアシヴィリにも何かそういうフィギュアスケーターとしての名残があるかなあと思って見てたんだけど、そんなもんふっとんだ。アナニアシヴィリのバレエ団、『ロミオとジュリエット』なのにイコンを使ってる。カトリックの国、バチカンのお膝元イタリアの話なのにイコンはないわ。なんでこんなにローカライズしてるんだろう、うっかりかしら、でもこんなに有名なイタリアの話を「我々の話」にまさかそんな無頓着にしないだろう、このローカライズの意図はなんだ、と2,3日考えて気付いた。ああ、なんだろうこの違和感、今まで全幕ロメジュリみたことがなかった私が途切れ途切れながらも見てたロメジュリの振付ってマクミラン版ばかりだったからだろうか、とか思ってたけどそういうことじゃないと。ロシア(の象徴としてのウヴァーロフ)とグルジア(の象徴としてのアナニアシヴィリ)がロメオとジュリエットなんだと。

フィギュアスケートファンなら、エレーネ・ゲデヴァニシヴィリに降り掛かった災厄を通してロシアとグルジアの関係を少しは普通の日本人より知っていると思いますが、舞台監督のアナニアシヴィリは『ロメオとジュリエット』という題材を通してその厄介で複雑で人民が翻弄されている関係、そしてその関係の和解をうながすようなメッセージを送っていたんですね。その「象徴としてのイコン」だ。これはイタリアの話じゃない、カトリック国の話じゃない、正教国である「我々の話」なんだと。もう無駄な諍いや血を流すことはやめようじゃないか、と。

そして、旧ソ連の国の中ではプーチンが着々と情報統制を行っているためにソ連時代のようにこういう形でしか意思表示をできなくなってるんだ、と、どこかで読んだ話を思い出し、北京五輪の最中にやらかしたロシアとグルジア南オセチアのゴタゴタがまだ落ちつかない時期に、ゲルギエフがチャイコ『悲愴』を振っていた光景を思い出した。

あの時、私は、ゲルギエフがなぜそこで指揮をするのか、彼とプーチンの近さを考えながら、その音楽の素晴らしさと彼の出自(オセット人)と人脈がうまく連結しなくて困り果てていたのだけど、全ての犠牲者へ捧げる、と、思ったって正面切って言うことは不可能だったのだ、と、ようやく気付き自分の鈍さにショックを受けた。

あの式典はロシア主導でロシア政府がロシアのために犠牲になった人々のための追悼セレモニーという体裁を整えてゲルギエフを連れてきていたのだけど、彼が果たしてグルジア側の犠牲者を思いやらない人かというと、決してそんなことはなくて、でもそれは言えなくてただ黙って彼は彼の音楽にその気持ちを託すほかなかったのだと。

楽家の思想や感情と、その音楽は切り離せるわけないじゃないか。あの『悲愴』が全てだったんだよ、それをただ心で感じていればよかったんだよ。余計なことゴチャゴチャ考えるなんてほんと愚鈍なバカしかやらないことだよ。日本人が考える芸術家と政治家の距離みたいな単純なものじゃないだよなあ、ロシアというか旧ソ連は。なんというか、もう、サバイバルというか狸と狐の化かし合いというか、政治センスもなければやっていけない国のとりわけそういった傾向の強いサンクトの英雄になるまでの人だ。あのサンクトペテルブルクの英雄になれる人は、相当なタフネゴシエーターであるに決まっている、と。その原動力は音楽で、芸術で、そういったものは平和でなければ享受できないことが身に染みてわかっている人だから、サンクトでは誰もが誇りに思ってるのだろうし、バレエ音楽なのにバレエ無視して自分の演奏してても、バレエダンサー合わせていくんだと。マリインスキーであんな暴挙、ゲルギエフじゃなきゃ許されないだろう。そこに辿り着くまでの過程は色々あろうとも、私はただその音楽に漲る熱を感じていればいいんだと、あの肌に吸い付く感触に陶酔していればいいんだと、ちょっと涙ぐみながら辿り着いた。

で、ピナ・バウシュの『私と踊って』は、これがまた旧ソ連の芸術家とはうってかわって明快に「暴力」をテーマにできていまして、生の舞台を観に行くと、観客の咳やくしゃみや衣擦れのような雑音は普段よりひどいノイズとして周囲を不快にさせるものですが、この舞台は違った。舞台で繰り広げられている「暴力」の象徴を彩るものとして吸収されていたのです。舞台上で男性用の黒い帽子を投げつけるのも、客席からあらゆる形で発生するノイズも同様の舞台効果として機能していて、その受け止め方・懐の深さが女性的な作り込みだと私は感じた。

とにかく、私にとっては極めてわかりやすいのだ。常日頃それに従属を無意識にせまってくる抑圧的・独善的な「男性社会の暴力」を可視化して、常日頃それに呑み込まれる恐怖に震えていた繊細な「少女と狂気の戦い」を可視化して、常日頃うんざりして持て余している「女そのもの」を可視化して、なんでここにこんなにも「私」の心象風景そのものが舞台として繰り広げられているのだ?と、どういう経路をたどって発露したものなのだ?と。これはピナ・バウシュの風景であると同時に「私の風景」だと。周囲の顔色を伺ってビクビクして取り繕ってる上っ面は剥がされてそのまんま引きずり出されて、そこに広がるものは言い換えると「オフィーリアの内面」でありました。

心の底に広がる暗い沼のへりで、かろうじて気がふれないように歯を食いしばって耐えて耐えて立ち続けていた、窓の外の曇り空と冬の落葉樹を見て感じ入って泣きそうになって「私も大人になったら周囲の大人のように鈍感に摩耗してしまってこういう気持ちを持てなくなってしまうのだろうか」と悲しくなって怖くなって「大人になんかなりたくない」と日々成長して行く自分の身体を持て余していた頃のことを思い返し、これを作った人の心の底にもオフィーリアがいたんだ、と思ったのでした。
今は、大人になってもそういう感受性は失われることはないし、そういう感受性は失わないままたくましく強く優しくなることが大人になることだとも思っているし、オフィーリアなりジュリエットなりくらいの年代に死に損ねた少女がやるべきこともわかっているつもりですので、舞台観た直後は、さっきまでそこにあった、本来の個性であるあまりにもか細く小さく繊細な声と、獲得するしかなかった「世話焼き長女の大きな声」のギャップに戸惑って目眩を起こしたりもしましたが、外向きの声と外向きの声を出し続けて守るべき本来の声をきちんと確認できたのでとてもよい機会になりました。ピナの作品がこの世に受け入れられているということは、自分の声の収まる場所があることだと解釈できて励まされるし勇気が出ます。

あまりにむき出しになった「女そのもの」の内面世界を見た男性客の人々はどう解釈しているのか想像つかないけど、情緒に流されやすいロマンチストな男性諸氏があの混沌とした「ある一定のタイプの思春期の少女の目に映る世界」を突きつけられても、それでもこれだけの人が足を運ぶのかと、なんかまだ役割はあるんだな、となんとなく思ったんです。

なんだろうなあ、例えば、いつもいつも上野千鶴子がメディア露出する時、井川遥みたいな雰囲気と喋り方で上野千鶴子の思想のようなものを語っていたらフェミニズムフェミニストというものの捉えられ方は随分違ったものになっていただろうに、などとぼんやり考えたりしていたのですけど、そういう人間がいないなら私がやればいいじゃん、みたいな、そういう。または、オフィーリアだったりカミーユ・クローデルが自分の中にいるのだけれども、彼女達と世界が和解できるような場を作る、とか、そういう。まあだって私だけじゃないでしょう、自分の中のオフィーリアと折り合いつけなきゃならない人っていうのは。少なくとも、ピナ・バウシュはそういう人だったってわかったし。でも、ピナ死んじゃったし。生をまっとうして死んじゃったし。死んじゃったから空き地になっちゃってるし。頑張って体力つけなきゃな、って、でもマイペースでいこうって。

最近、私、「大器晩成」って意味がようやくわかってきたんです。