膝に宿る鶴

7/24のソワレで森山開次の『翼 TSUBASA』を見てから苦しくて泣きたくて悶えて一週間が経ちました。

森山開次公式サイト
http://www.kaijimoriyama.com/
森山開次ロダンスツアー2010『翼 TSUBASA』特設サイト
http://kaiji-tsubasa.kaijimoriyama.com/

その場で立ち尽くして、カーテンないけどカーテンコールの途中で泣けてきたというのに、アンケートにその思いの迸りを書ききれない挙げ句、自分の字が汚過ぎて読み取り難さに輪をかけてしまったため、続きはwebで、と書き殴って予告しておいたら、私はあのパフォーマンスに対して語る言葉を持ち得ているのか、と苦しくて苦しくて、開次さんは舞台で自分のすべてを曝け出して、言いたいこと、それも自分のコアな、他人に否定されたら自分が消えてしまうような大事なことを一生懸命語ってくれたんですよね。そして私、客席の一人一人の「私」と彼の言語であるダンスで会話して受け止めて舞台を作り上げてたんですよね。私はこのおしゃべりの相手になれたことが嬉しかったし誇りに思えたし、彼の勇気に感動したし励まされたけど、じゃあ、私がその彼に向かって何を自分の言語で語れるか、対峙できるか、と、いざ自分のフィールドに戻ったら途端に恐ろしくなってここの「舞台」がこわくてたまらなくて逃げたくなって、でもそれ以上に書きたくなったから今やっと更新してるんだけども。

とにかく印象に残っているのは、この人は生まれた時からいっぱい喋りたいことがあって伝えたいことがあって、それがあまりにも本質的なことなため口にすることをためらってるうちに口下手になって、どんどんそれがたまっていって、自分の言葉が「ダンス」だとわかってからも苦しくて、でも苦しいから美しい「言葉」を他者の心に届けることができる人だということ。そして、その美しさの予期せぬほつれが何より美しかったこと。

バッハのメヌエット志村けんの動きをかけ合わせてもギャグではなく純粋に人の心を動かす、というものすごく高度な表現形態は、両方が彼にとって大切なものだからだろう。単純に彼が語りたくてやりたいものだからだろう。同じ引き出しに入っていたからだろう。この二つを等しく大事なものとしている彼の心が素晴らしい。彼は簡単に垣根を超える。正確に言うと、超えるというより溶かす。客席と舞台の距離をいきなり登場で溶かす。壊したんじゃない、彼が登場して客席から舞台へと移行する時間だけその距離が溶けていたのだ。気付かないうちに客入れの録音音楽からピアニストが奏でる音楽に移行し、あれ、いつの間にかピアニストが座ってる?と3階席から舞台をよく見返したら森山開次がすぐ下を歩いていた、それも自然に。自然なまま客席に座り、自然なまま舞台にあがり、自然なまま面をオブジェに加え、自然なままピアノと戯れ、自然なまま肩甲骨の上についた彼の鎧に汗を光らせ、その滑らかさに完全に身を委ねそうになった時、事件は起こる。

トランペットは事件だ。世間だ。「大きな声」だ。「大きな声」の前で口下手な私達は立ちすくむ。「大きな声」はその暴力性に無自覚なまま大きく尖った音を出し,盛大に音を外し、私達の心を切り裂き、それでも気にせずがなり立て続ける。それがトランペットだから。トランペット奏者はいつもあっけらかんと無闇に前向きだ。その声の前で出せない声があることに気付かない。シャイで不器用で口下手な人間が、悪い奴じゃないけど苦手、そう思ってしまう存在の象徴だ。

そして気付く。トランペットが相対化したために、つい先程までの「自然な世界」は世間に晒されない密やかで平和な閉鎖空間だったと。与ひょうとつうの静かな暮らし、もしくはつうの機織り部屋を特別に公開してもらっていたのだと。トランペットと共に与ひょうをたぶらかす世間がやってくる。私は思い出す。授業中に国語の教科書に掲載されていた『夕鶴』を何度も読み返していたこと。チャイムと共にその世界から引きずり下ろされ苦痛にまみれた学校生活に強制的に戻らされたこと。

森山開次はつうだった。そしてつうは私だ。だから私にはわかる、あの場所がどういう場所か。彼の喜びは私の喜びだ。彼の痛みは私の痛みだ。彼や私や世間の至る片隅に散らばるつうの喜びと痛みだ。

トランペットが鳴る度、私の身は縮む。その前で私は上手く話せなくなるから。そのことに身をよじらせて悲しくなるから。まさにその気持ちが動きとなって目に入った時、森山開次は完全に私との距離を溶かした。彼は全く何も押し付けない、ただ境界を溶かし、異なる身体・異なる世界を柔らかくつなげる。

私が見た回では、意図した「事件」とはまた違う「事故」が起こった。
上半身裸で下半身は白鳥のチュチュ、といった具合の衣装の森山開次に「星の銀貨」が降り注ぐ。地上に落ちた銀貨の上を踊ったあと一旦姿を消しもう一度現れた時、彼の左膝は赤く滲んでいたのだ。

最初、私はそれを演出だと思った。これは白鳥じゃなくて鶴が題材だ。白や黒の衣装だけだと白鳥と区別がつかないから膝に紅を注してきたんだと。粋な計らいだなと思って見ていた。
でも、長く動き続けているうちにその紅の存在感が増してきた。それで気付いた、星を踏みつけ、跪いた時に生じたアクシデントだったんだ、と。なんと奇跡的に美しいアクシデントなのだろう、と。そして、この美しい肉体に彩りを添えてくれた、舞台の神の粋な計らいにありったけの感謝を捧げた。

あの一点の紅がこの舞台のハイライトで、題材となった鶴の肉体的な痛みを図らずも活かしきっていて、それにしばらく見とれているうちに私はこの舞台の豊穣な物語の語り部の森にすっかり入り込んでしまい、言語と完全に一体化してしまい、感情は常に一緒に動き客観視できなくなっていて、我に返ったのは『主よ人の望みの喜びよ』の旋律が耳に入った時、バッハに戻った時でした。気付いたら瀕死の鶴が愛したり傷ついたりした世界から飛び立つところでした。ピアノは相変わらず寄り添ってトランペットは相変わらずうるさくて、でも、向かうところがピアノもトランペットも鶴も一緒だと、この大きな声は優しく聞こえるんだ、と、その世界との和解を示すラストの解釈に彼がどうして声を出したいのか、という結論が示されていて、その優しさに蹴落とされた。私はここまで優しくなれるだろうか、と自問自答しながら、拍手を送り、その拍手にはにかむ森山開次を見た瞬間に嗚咽してしまった。

鶴とピアノとトランペットは対峙するだけではない、共存することも可能なんだ。
場合によっては、つうも与ひょうも世間も仲良く暮らしていけるんだ、その地点を見つけるんだ、という意思を改めて持つことができるようになりました。

森山開次がダンスに出会い、ダンサーではなく「おどりびと」と自称し、たくさんの他流試合・道場破りをこなしながら、常に意識し絶対に戻ってくる場所と、その場所を豊かにするためにいつも戦っている意味がよくわかる舞台でした。

開次さんが「おどりびと」なように、私はライターでも作家でもなくただの「ものかき」です。作家じゃなくて作文家です。一から何かを作ることはできませんが、そこにある物語を見つけて感じて掻き出してそれを文体を使って書く人です。物書きなので物語への嗅覚は持っていますし、物書きは物語に出会ったらそれを書かずにはおれません。ダンサーが鍛え上げた肉体を通じて自分の伝えたいことを訴えるように私は文体を鍛え上げなければなりません。私の肉体は文体です。だから、自らの肉体で勝負している人の前に実際の肉体を伴って出るのはとても恥ずかしい。私の肉体は肉体自体で勝負するための肉体じゃなくて文体のための肉体だから。私の肉筆はもはや自分でも判別できないくらい哀れな字ですが、このペンを綺麗に動かすことすらままならない粗末な肉体が書いた字をなんとか判別して、アンケートに書ききれなかった私の『翼 TSUBASA物語』を読んでいただけたら幸いです。