自分が何者であるかの自覚と覚悟

私が三浦綾子の小説にいまいち乗り切れない理由は、彼女が「文学者」である前に「キリスト者」であるからなんだよなと、彼女は「文学かキリスト教かどちらか一つ選べ」と訊ねたら迷わずキリスト教を選ぶ人間であるから、なんか私は共感できなくてしっくりこないんだろうな、と意識しました。同じキリスト者の日本人作家でも、そう迫ったら遠藤周作はきっと文学を選べるキリスト者だろうなと思って、日本のキリスト者作家では一番遠藤周作が好きなのはそこだろうなとか考えてました。
遠藤周作キリスト者どころか人間である前に「文学者」だったと思う。キリスト教を扱った作品で三浦綾子は一貫して信仰を描いていたけど、遠藤周作はあえて棄教をテーマに据えて描くことができたというのは、私はずっとこれがプロテスタントカトリックの違いなのかしらとぼんやり思っていたのだけど、そうじゃなくてファーストプライオリティが「キリスト者」であるか「文学者」であるかの違いだったのか、と気づいて、やっと腑に落ちた。

で、私も自分のファーストプライオリティは常に「文学者」であるという立場に置いているなと。
別に生きている間に「文学者」として扱われなくてもいい、「文学者」として一生をまとめることができるかどうかが重要なんだと思いました。
「恋人」や「妻」や「母」であるよりまず「文学者」でありたいので、「文学者である私」を尊重してくれる人じゃないとパートナーとしては耐えられなくなるんだろうなと。その人が「私の文学」には興味があってもなくてもいい、この二つは全然違う。
多分、結局の所、私がよく怖がられるのはプライオリティの順番が多くの人とは異なってるからじゃないか、と今仮説を唱えてみます。
私はよく怖がられます。自分はなんとなく他人とは違うと思い込んでる人に怖がられます。そういう人が漠然としか意識していない部分を、私は「存在」として突きつけてしまうから、多分怖がられます。
私はできるだけ「文学者」である以外のペルソナを背負いたくないので、一人で生きていく覚悟はとっくにしていて、それが恋愛に軸足を置いている人とは相容れない生き方だから、話が合わないのはしょうがないのだとやっとわかった。

で、私はたまたま文学畑の人間なので「文学者」と書いてますが、これは要は「表現者」ということなので、何を見ながらこういうことを考えてたかというと、NHK杯高橋大輔という人の演技を見てて何回も見てて、何回も見てるうちに心の奥底から聞こえてきた自分の声か高橋さんの声かわからないですけど、高橋さんの「表現者である俺」っぷりを見てて、化学反応が起こって聞こえてきたものな気がして、そしてその声に宿っていたのは「覚悟」である気がしました。

あ、あと、今売りの『コーラス』に載ってたハチクロのスピンアウト企画なのかな、まあそれを立ち読みしたのも影響はしてると思う。今回登場してたのは恋愛パートの人間だったから、メガネ充電はいたしましたけども、違う大陸の人達の話なんだと思ってしまって、あー私こっちじゃなかったんだな、と。