読むには遅過ぎた

今、大江を読んでいて、私の相手をしてくれる(してくれた)男友達がたいてい大江読みであった理由がなんとなくわからないでもないような気はしてきたのですけど、彼等の中の何人かは私が高校時代に初めて松浦理英子を読んだ時のような衝撃、そして回心体験を大江から得たかも知れないと想像するのですけど、回心体験のあとではなかなか手が出せない書物ってありますよね。
私がその年代らしい無知蒙昧さを兼ね備えた文学少女で音楽少女だと世間から見なされていた頃、次はこれを読もうと思いつつ先延ばしにしていたのが『モデラート・カンタービレ』と『ブラームスはお好き』で、だってこんなタイトル付けられたら常にカバンの中に楽譜と文庫本が入っていた少女だったら気にしなきゃ逆に不自然だろ、という代物で、あまりに気にしていたからうかつに手を出せなかった代物でもあって、だって私は部活の合間に本を読んでいる少女だったから、こんなタイトルの本読むの恥ずかしいじゃないか、つう感覚を持ち合わせていたのです。だからデュラスは『ラマン』から読んだしサガンは『悲しみよこんにちは』から入ったのです。
タイトルが違うテンポ指定だったり違う作曲家だったら読んでいたかもしれない。モデラートなんて中途半端な、とか、ブラームスはそれほど好きじゃない、とかそういう自意識の抵抗もあったから。
そして、デュラスやサガンとの出会いからすぐに松浦理英子読んじゃって風景が変わってしまったから手を出しそびれて今日に至る。
今読んだらきっと、それなりには楽しめるのだろうけど、できるなら回心する以前に読んでいだ経験が欲しかったなあと思う。
私が若い時分に『モデラート』を拒否し、『ブラームス』を拒否していたのは自分の個性を拒否していたからなんです。『モデラート』や『ブラームス』についての感情は私がクラリネット奏者であった事も多分影響を及ぼしていたんだろうなと思います。
カンタービレ』についてはあまり拒否反応がなくて、オブリガート担当の時にこっそり歌うように吹くのが一番好きだったので、それにこの単語の概念にはまだ解釈に幅があるからだろうな、今思ったけど。
私は本当に主役になるのが苦手で、主役の横にいる伴奏者の役割が一番好きで、これは何をやってもそうだった。きっとこれからもそうだろう。他人がどう思うかはさておき、自分の態度としては生涯伴奏者なんだと思う。伴奏者は職人であり芸術家であるからかっこいいとずっと思ってたけど、多分万人が憧れるポジションではない気がする。
だから私は私の主題がそれのみで成立するのは難しいと悟っているのですけど(私が対旋律であり伴奏者であるから)、私のその態度を生かすテーマにはなかなか出会わずに、小沢健二の態度*1の『マルグリット・デュラス読んでろボケ!』レベルで『大江健三郎読んでろボケ!』と内面的に毒づくことも多々あった。

今、はっきりわかることは大江健三郎本人はともかく、いわゆる『大江読みの文学青年』が私のテーマになることはない。大江健三郎に心酔している個性は私とは交わらない。

*1:久々に小沢健二2万字読んだらやっぱり面白かったよ