再読して気付く事

「親指Pの修業時代」の文庫版をなぜか持っていなくて、やっと最近買いそろえたんですけど、長編小説の作法というのが、今併読している「万延元年のフットボール」でもそうなんだけど、キャラクターよりテーマが重視されてしまうと、どうしても登場人物が物語の役割から逸脱することができなくなってしまって、キャラクターが自由奔放に飛び跳ねている小説の方が私は好きなのだなあと思った。少なくとも今現在の気分なのだなあと思った。

親指Pの修業時代 上 (河出文庫)

親指Pの修業時代 上 (河出文庫)

親指Pの修業時代 下 (河出文庫)

親指Pの修業時代 下 (河出文庫)

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)


テーマ性に重きを置いた小説の方がもちろん隙はないし評論しやすいんだろうけど、キャラクターのドライブ感が抑えめになってしまうのはもったいないなあと私は思う。これは文体が好きな作家の場合で、あまり好みじゃない作家はテーマ重視でいってもらった方が読みやすいんだけども、文体が好みじゃない作家を読む機会なんてあったのは学生時代までだからなあ。
だから、10年ぶりくらいにこの作品に触れて、なんで「親指P〜」だけは手元になくてもまだいいかな、と放っておいたのかということがわかった。しかしこれだけが世間で売れた理由もわかった。*1
書き手として考えると、長編をうまく着地させることがどれだけ難しいか、というのは想像できるというか想像するだけで頭の痛くなる問題だから、好き嫌いはどうあれその世界観を破綻させることなく着地させている小説はどれも名作なんだと思いますけど、純粋に読者としてその作者のベストワンに選べるものであるかどうか、というのは別問題かなあ。ライトなファンに支持されるのじゃなくて、コアなファンが推す作品としてあがりづらいだろうなと。その作家の長編は名作・傑作ではある、けど、でも私は…みたいにちょっとした短編を選ぶ傾向がある理由はその作品のファンじゃなくてその作家のファンであるなら当然なんだろうなあ。コアなファンというのは要はオタクだし、オタクはメジャーどころを好まないし。

ここでひとりごちている分にはいいのですけど、小説とか文学とか漫画とかを誰かと語る時に語り合う相手ときちんと間合いを計らなければならないことを忘れてはいけないのですが、これに気付かせてもらったのは教育実習の時でした。
私の担当をして下さった方は教育大卒で教育者の立場から国語教育の一環として小説を扱っている立場であったのですが、実習生の私は芸術学部の文芸学科なんつうところで大学で課題として出されるものは本を読んで評論書くか自分で小説書くかみたいなことしかやってなかったもんですから、本人は当時無意識でしたが作家側の立場で小説に触れていたのですね。
で、その時実習で扱う作品が評論だったらまだよかったのかもしれないですけど、それが日本の近代文学だったもんですから、全くその作品に向かう態度が違うんです。私は大変乱暴にくくると同業者の目線だから乱雑に触りにいってこねくりまわすんだけど、あちらさんは貴重な骨董品を扱うように丁寧にひもとくんです。自分でやろうと思えば作り出せる方の人(だって大学卒業するのに自分で小説書いて提出しなきゃいけなかったから)と、そんな作業が自分でできるなど想像すらしない人とでは違うんです。私にはあちらさんの「たかが小説」を神格化する感性や論理が全く理解できなかったからものすごく一方的な視点になってますし、あちらさんから見たら私はとんでもなく無礼な人間であるとしか思えなかったのでしょうけども、だって評価がお墨付きの骨董品にケチつけてたんだもん、私。ここの文体気に入らねえ、これは削れる、みたいなそういうケチ。一字一句全てに意味があって決して侵してはならない、という人からみたら理解不能だったんじゃないだろうか。
まあ、一事が万事その調子だったから、全く噛み合なくて、私が自分の目線が教師じゃなくて作家であったことにもっと自覚的であったならもう少し歩み寄れたんだろうけど、私はあれほど周りに作家志望があふれていた環境に置かれていたにも関わらず「作家目指す奴はバカ」と公言するほど頭の悪い大学生活を送っていたので、自分にその目線があるなんて思いもよらなかった。
で、日本の国語教育の現場に「こんな教え方していたら、面白いもんもつまらなくなって、誰も小説なんか読まなくなるじゃん!」と憤っていたのだが、あちらさんは私についてどう思ってたんだろうなあ。
日本の国語教育の現場を否定する態度をとっていたのだから、そりゃ教員免許はもらえないわなあとも今は思う。脇が甘かった私が悪い。
でも、漠然とだけど、現代日本で教員免許をとることができて教えることができて講師や教員体験がある作家先生の一群よりは私は面白いものを書くことができると思っている。あれに順応できる人間が書くものは所詮あの枠から出られないだろうと思う。
作家志望の人って子供の頃から書いてる人が多くて、大学に入って課題で小説書かなきゃいけないって言われて、見よう見まねで初めて小説書いたのってゼミで私ぐらいだったはずで、私ほんとびっくりしたんだ。なんで小説を書くことが趣味にできるんだろうって。そしてなんで子供の頃から趣味で書いてるのにこんなにつまらないんだろうって。当時編集者・評論家志望だったのでほんとびっくりした。まさか自分が大学卒業して数年してやっと自覚的に作家目指そうとするなんて思わなかった。ちょうど子供の頃から趣味で小説書いていた人がそういう大学までいったけどその環境でもまれて自信を失い挫折する年齢になった頃、私は社会との折り合いをつけることがうまくできずにまっとうな人生に挫折して作家志望になったのでした。

現代の日本の国語教育のダメさ加減と現代の日本にはびこるつまらない内容の出版物に限ってベストセラーになるという現象は相関関係があると思いますけど、それはまたいずれ私にそういうことが言える立場ができてから思う存分やりたい放題指摘したい。
もう少し体調が戻ってきたら執筆作業再開します。そのための肩ならし。戦闘態勢をそろそろ整えたいと思ってこれ書いた。
私は水村美苗の小説を読んで初めて恐ろしがる方に回ったのだけど、もしかしたら私が今まで他の人に怖がられた時に与えていた恐怖はこの感情だったのかなあ、と思ったら自分にもちょっと希望がもてたよ。

*1:もちろん松浦理英子大江健三郎もずば抜けた作家で、両作品とも傑作であることは疑う余地はない。その作家の他の作品と比べての個人的な好みであり、読むべき価値は充分すぎるほどある