That's Life.

スポーツが好きだということは好きな競技者を見送る機会も当然あるわけで、個人的なことを申しますと、かつて私は競馬が好きで好きでどうしようもなく好きで、そこまで私が競馬が好きになるきっかけになった馬の名前がライスシャワーと言いまして、彼が引退するだろう年になんとか大学進学できまして、多分冬の有馬は引退レースだから、そこで最初で最後だろうけど現役競走馬としての彼に会えるのだろうなと漠然と思って春の天皇賞の馬券を握りしめていたら、奇跡の復活を成し遂げてしまって、あわあわしてしまって、冬になれば会える、やっと会えるって思ってたらその優勝した天皇賞の次のレースでレース中の事故でその場で予後不良*1になってしまったことをまず思い出すので、それ以来、生きていればいい、とはまあ思うんですけど、もうちょっと欲を出すと、現役で本気で勝負をしている瞬間に間に合いたいっていう気持ちはものすごく強いんです。現役で本気で勝負をしている場所に出向くにはそれ相応の覚悟が必要ですから、思い詰めて思い詰めてそれでもどうしようもなく立ち会いたいかどうか悩んだ末に飛び込んだらもう一直線なわけです。「もうあいつと心中だよ」なんつう会話はそこいらで交わされている場所で鍛えられていたわけですから、今のJRAのCMの仲良しこよし感が許せないというか、CMだけじゃなく実際そういう場所になってしまって、なんだか媚びてしまった場所に行きたくはないので競馬から遠ざかったというのもまあ理由の一つではあります。あそこは勝負の場であってデートスポットとか家族サービスとかゆるくサークル仲間でピクニック行楽気分で気軽にいっちゃいけない神聖な場だったんです、私にとっては。空気が濁ったって思ってしまうんです、なんかゆるい感じできてる人を見ると、そして「お馬さん」って言い方は命かけて実際命落とすかもしれない競走馬に対して失礼だろうと毎週毎週憤っていたんです。で、JRAがむしろ「お馬さん」な人々を歓迎している姿勢をとっていることに耐えられなくなったのと、本気の煮詰まった大人がダメな人間である確率があまりにも高くてその両方を見てその作りだす空気に耐えられなくなって、競馬の魅力より嫌な部分が勝ってしまったから足を洗った。

競馬の世界で綺麗に引退できる馬っていうのはそりゃもうごく一部の選ばれた幸運な馬だけです。綺麗じゃなくても引退したあと生きながらえることができる馬も限られています。そして、競走馬の競走馬としての寿命は平均3年くらい?4年以上続けてるとロートル扱いされてたかな。なんだか私がスポーツを見る時の視点は競馬で出来上がってしまってる部分があるので、フィギュアスケートの選手寿命が、例えば他のオリンピック競技なんかと比べると短いのはものすごくわかってるんだけど、なんか体感として、まあ全盛期はこれくらいで競技寿命はこのくらいだよな、っていうサイクルが競馬と同じくらいなので違和感ないというか、なんて短いんだろう、とかいう驚きはないというか。馬と一緒にしたら選手や関係者や私以外のファンは怒るのかもしれないけどさ。

ジェフリー・バトルの引退のあっけなさと突然さと鮮やかな引き際が最後までバトルらしいな、と思って、そういう「らしさ」ってすごく大切だな、とも思って。死に際に「らしい死に方だったね」って私は言われたいのですが、アスリートの引退もそれに近いものがあるんだなあって、それで、これはかなり質のよい引退なんだろうなって思って、彼は別に死ぬわけじゃないので、大好きな競技で惚れ抜いた存在が突然その舞台の上で比喩じゃなく本当に生命体ではなくなってしまったのをテレビ中継でとはいえ目の当たりにしたこと、あとあそこまで惚れ抜いていたわけではないけど、サイレンススズカの事故や他の何頭もの馬を現地で送ったこと、落馬した騎手が動かなくなって待機していた救急車に運ばれていくのも見ていること、など思い出すと、『ジェフほんとナイスガイだなあ』って思って。荒川さんがプロ転向した時に、ああやってこれ以上ない形で現役生活を締めくくれる人って各カテゴリ4年に1人(1組)しかいないんだよなって思ったんだけど、あー別に4年区切りじゃなかったんだっていうことを初めて思い知った。4年区切りじゃなくても、綺麗な引き際ってあるんだなと。

とは言え、私がライスシャワー以上に入れ込んで、生で見なきゃって思って(これはライスシャワーを生で見逃した苦い経験も動機としてはあったのだけど)、長年のテレビ桟敷から現地観戦、そして遠征までさせた、常々『バンクーバーで金メダルとって引退』と口に出す選手のことも考えるわけです。なんでここまで入れ込んでしまったんだろうって、ずっと考えてたんだけど、それは、彼がもつ世界に(こちら側の主観では)入れてもらえたってこと、その世界と自分の世界が(こっちの勝手な主観では)ぴたりと重なっていたこと、そして、彼がもつ世界に触れた時だけ私は素直な自分に戻れること、というか初めて素直で肩肘はらない自分がどういうものなのかを知ったこと、彼が滑っているその空間でそのたった数分を共有することが自分の背負っているものを解放することができる今のところ唯一の時間であると知ってしまったこと。このあたりが理由なのかなあと今は思ってます。
こういう書き方すると『癒し』とか思われるかも知れないのだけど、そんな甘っちょろいものじゃなくて、求めているものが重なっているんじゃないかって、だから世界が重なることがあるんじゃないかって、その求めているものが何かっていうのがまだわからないのだけど、相当手強いものなんじゃないかっていうのは感じます。ぴたりと重なるっていうか、共有スペースを持っているって感覚です。なんだろ、リビングでもベッドルームでも書斎でもいい、いや書斎だけは絶対他の人と一緒にいられないから違うな、まあそれはいいんだけどなんか同じ部屋にいて違うことやってるのが自然な感じ?共有スペース以外は別に干渉しないし入っちゃいけないところは入らないけど、なんか同じ場所を持ってる感じがした。自分以外に同じ場所を持っている人がいるとは考えたことすらなかった、だからその衝撃が意味がわからなくて、わからないなりに一生懸命説明してたら、「そういうの恋って言うんだよ」って言われて、これが恋なら私は初めて恋愛感情というものを知ったので、まあ片思いなんですけど、普通の女の子が普通に経験してくるようなことは封印していたので、なんかいい年して初めてきちんと恋愛感情というものと向き合ってみたんですけど、勝手に「共有してる」って思ってる分にはいいのかなと。『主観』で『勝手に』、という部分は常に忘れなきゃいいのかなと。これ忘れるとストーカーになるのかなと。ストーカーとは限りなく縁遠くありたいので、ここは勘違いと踏み外ししてはいけないポイントだなと。きちんと恋をしたことがなくてこれが多分初めての片思いなので、もちろん両思いというものも知らないんですけど、想像するに、それはお互いがお互いの世界に入り込むことを許可しあい、多分それが心地良いから許可し合って、で、入っちゃいけないところには気を遣ったりして、相手を尊重することもできる関係のことなのかなとか思いました。多分これ恋愛というか結婚生活の話のような気もしますが、恋愛と結婚を分けて考えるっていう発想の意味がわからないので、簡単に両思いと言っておきます。

*1:殺処分ということです