二度と戻らない美しい日にいると

marginalism2012-10-03

 本当は分かってる。電車の中に置き忘れた日傘などJR東日本に問い合わせれば見つかることなんて。特徴的な部分がある傘だったから、探すのだって難しいことではないだろう。でも、何か、思い出が欲しかった。何年も一緒に歩き、私の皮膚を日光湿疹から守ってくれた相棒を失うことで、この日を覚えておきたかった。*1

 ここ半年ほど、自分の全てを注ぎ込んでいわゆるリトルプレスというものを作成しておりました。世の中で何が起こっているのかも把握しきれない疾風怒濤の日々でした。詰め込み過ぎて倒れて途中1ヶ月ほど体調不良で使い物にならない期間もありました。秋分の日も過ぎて最近ようやく諸々を立て直し、9月も終わりの土曜の朝からファミレスで打ち合わせをして、次の案件に行こうとしたらその用事が飛んでしまった。だからSNSで呼びかけて多摩川沿いで昼間っから飲酒している30代の集団にすっと混ざってしまった。本当にふらっと。さりげなく。自然に溶け込めて、私、三十路も半ばを超えてよかったなあと思った。
 彼らにとっては造作もないことなのかもしれない。私としても結果としては造作もなく入っていった。でも、これが造作もない空気として成立するのは実はとても難しい。小沢健二山田太一ではなく、つげ義春風情の多摩川沿いの小屋でそこら辺に犬猫がいて、自由に餌やったり寝てたりしていて、人も犬猫もさほど扱いが変わらなくて、飲んで食べて遊んでまた座って飲んでの繰り返しで閉店まで居座って。
 ここのところずっと息詰まる生活をしていたから、世の中の外れで時間から忘れられているような空間に台風と台風の狭間で増水している川の水量や空や風や反射する光は季節を運んできていて、ぞんざいな汲取式トイレの店なのにテレビだけは薄型液晶になっていて、土曜の昼の競馬中継が流れていて、周りでは仲間達がわいわいやっていて私も当然のようにわいわいやっていて、自分自身が(編集作業の)台風と台風の狭間のエアポケットにいることも相まって、そんな完璧な場所に自分が馴染んでいることが密かに誇らしかったのだった。これ、友達がいないことを経験してきたことがある人だと少しわかる感覚だとも思うんだけど、どうなのだろう?

 飲み会なんて他愛ない話か他愛あり過ぎる話しかしない場所でありますし、自ら酒を飲まなくとも気化するアルコールや酒飲みの息だけで誰よりも早く酔っぱらう体質なところに輪をかけてホッピーはノンアルコールと言われ一口もらったら、これ明らかにアルコール入ってんじゃん!とよくよくラベルを見たらアルコール0.8%と書いており、酒飲みと下戸の感覚の違いにより結果的に個人的感覚では吐かない寝ない頭痛起こさない程度の泥酔になってしまって、気軽に人をナイフでざっくり刺す部分が強調されてしまったきらいもありましたが、とにかく楽しくて、これで私当分笑って生きていけそうな気がしたなあと。笑って生きていけなかった人間の分も笑ってやろうと思う。生きてるから。

*1:この日は自分で写真は撮ってなかったので同席した人のインスタから拝借してきました。問題あるなら下げてしまう