束縛/解放

marginalism2014-02-04

金森穣の踊りをやっと観ることができた。1/24のNoism1『PLAY 2 PLAY -干渉する次元』KAAT公演、ぎりぎりまで悩んでいたのですがなんとか横浜まで足を運べて良かったです。

最初に出てきた時は、井関佐和子と生き別れの双子のようなものなのかと思った、が、違う。双子という対等な関係性ではない。井関佐和子が翻弄されている様子を観ていて、ああ、ここでの金森穣はメフィストフェレスなのかと得心する。

どういう踊りをする人なのかとずっと思っていた。初めてNoismを観に行った2012年12月のKAATの開演前のホワイエで私が人込みをうまく捌いて歩けずたまたま接触しかけた時の手の動き、2013年7月のSPACで客席から走り抜けて行く時のフォーム、どれをとっても何一つ無駄がなかった。演出家・振付家としてそこに存在していても、ちょっとした肉体の躍動は疑うことなく鍛え抜かれたダンサーのそれだった。この人が本気で舞うところを観たいと、Noismの舞台を生で体験する前に金森穣を体験していた私は渇望していた。

いざ体験した金森穣の舞いは深かった。懐が深い、奥が深い、などそういう形容詞を伴うものだけではなく、それも含んだ上でひたすら「深い」。それがメフィストフェレスという役回りであるため今回はそこにずっといたのか、それとも普段からこういう存在感なのかわからないけれども、この人は深いところから這い上がってきたり、深いところに引きずり込んだりするのではなく、ただ深いまま深いところにいて踊っている。『干渉する次元』という副題がついているので、他のダンサーとは違う次元を象徴するために意識していた部分はあっただろうけども、異質な存在感がただそこにあった。
異質な存在に振り回される井関佐和子の動きが私の魂の動きとシンクロし、突き放される度に悲しくて淋しくて心許なくなり、どうかハッピーエンドで終わってくれ、もしこれがファウストを下敷きにしているんなら最後は救われるはずだから、どうか早く解放してくれ、と言い聞かせて彷徨しそうになる魂をなんとか繋ぎ止め、90年代に青春を過ごしたものとして聞こえてくる音楽の肌触りにどこか懐かしさと幽かな安らぎを覚えそこに縋り、しかし今はもう90年代ではない、バッドエンドを受け入れる余裕がある時代ではない、とも言い聞かせ、同世代の信頼できる人間たちが導き出すラストまでどうにかして耐えた。

PLAYがPRAYに反転した瞬間、メフィストフェレスは敗北するし、みすぼらしく磔にされていた私の魂も救済される。
3・11を経た今、やはり創作として世に出すものはこうあるべきだと思う。「私の痛み」は「私たちの痛み」となったということは、やはり確信していいんだと思う。自分一人の中に埋もれていたものは他者と共有できるものとして露見されてしまったんだと思う。それは私だけではなくて人知れず抱えているものがあった人は皆そうなんだと思う。

幕が下りた後にスタンディングオベーションをしようと思っていた体に全く力が入らなくなっていた。泣いていた。嗚咽していた。会場に明かりが灯されてもうまく動けなくて、外へ出る人波をぼんやり見ていたら、しばらくして自分が座席の位置の都合上ボトルネックの原因になっていたことにようやく気付き慌てて飛び出た。


ぼんやりしながら考えていたことは、大江健三郎が『個人的な体験』のラストについて、発表当時の血気盛んな人々からあれは蛇足だったと大変に批判を受けたというエピソード。私はあの小説を読み進めている時にあのラストがあったから心を痛めつつもなんとか最後まで辿り着いたので*1、若者の感性なのかその時代の感性なのかわからないけれども、本当の痛みを知らない・もしくは痛みを受けていることに気付いてない人間の憤りを愛おしく思う。それが痛みを知った上でそれを他人にも押し付けるような行為であったとしたら悲しく思う。あらかじめ喪失された人間として生きてきた身の上としては、フィクションくらいでは救われたかった。フィクションの中を生きることでしか救済される手段を知らなかった人間としてはラストで突き放されずに安堵した。『個人的な体験』も大江健三郎の私生活で起こった出来事を通して描かれた小説なので、もう若くはいられない、そして絶対的に擁護しなければならない存在を授かった人間としての誠実さと責任感が鮮やかに掬い取られたラストシークエンスだったように思う。
『PLAY 2 PLAY -干渉する次元』もそうだった。ラストシークエンスで差し出されたのは金森穣なりの「これが私の優しさです」だったように思った。『ZAZA ~ 祈りと欲望の間に』で谷川俊太郎の詩が朗読された理由はこれか、とも思った。

以前、篠山紀信氏とのアフタートークで金森氏は「自分は不器用だからダンサーと演出家を両立できない」というようなことをおっしゃっていましたけれども、今回それができたのは何かきっかけがあったのでしょうか?それとも再演だから特別だったりしたのかな?Noismの舞台で踊っている金森穣を私はもっと体験したいので、これからも貪欲に舞台上に表れて欲しいです。

個人的な体験 (新潮文庫)

個人的な体験 (新潮文庫)

*1:小説はラストの展開を把握しないと読めない時期があった