うごくおん◯/It's gonna fine

marginalism2014-12-26


 師走のバスに揺られて途中にオペラシティ前を通り、そういえば『ドラミング』を聴きにここに来たのも年の瀬だったかな、など思い出しつつ少し気になっていたホールに足を運びました。

第2回 アート×アート×アート<音楽×ダンス×写真>
TETRAHEDRON | テトラヘドロン−4人の女性によるライヒ&ペルトの世界−
http://www.hakujuhall.jp/syusai/16.html

 女性だけの公演というのも興味を惹かれた部分だったのですが、観終わったあとに「女性と一括りにしてはいけないな」と反省。女性であること以前に芸術と向き合う姿勢が問われて然るべきであり、そこに厳然とした差が存在していました。

 12/19というクリスマスも間近の公演だったので、加藤訓子の演奏はアヴェ・マリア(訂正。バッハ「無伴奏チェロ組曲第1番ト長調」の第1曲「前奏曲」だったそうです*1)から始まり、そこからライヒのカウンターポイントシリーズに移ります。私はクラリネットプレイヤーだったので、ライヒの『ニューヨーク・カウンターポイント*2』は個人的に重要な曲なのですが、彼女のプレイもアレンジも文句のつけようがなくライヒの意図を汲んでいて、ただひたすらにがむしゃらにマリンバとマレットを武器にそこにこめられた魂を掴みに挑んでゆく姿が何より美しかった。
 その美しさをことごとく破壊し邪魔をしていたのが黒田育世のダンスだ。まず体幹がうまく使えず軸がブレているところからお話にならない。あの一連の難曲を演奏するためにマリンビストがどれだけ気の遠くなるようなトレーニングを積んでいるのか想像できるだけに、その横であんな程度の肉体を晒すのは恥ずかしくないんだろうか、こんな曲の理解度が浅い動きをどうして連ねることができるんだろうか、と不思議になった。常に移ろいゆく音符の羅列であっても、ライヒの曲って決めどころが掴みにくいわけじゃないと思うんだけど、そういうところを読み切れてない。加藤訓子は明確に演奏で伝えているのに、それを受け取れていない。黒田育世が何を受け取ったのかも踊りからは伝わってこない。伝わってくるのは音楽を無視した動きだけで身体を使って何を言いたいのかもわからず、それはダンスというのもおこがましい無惨なものでした。コントで見る「コンテンポラリーダンス」ってこういうのを参考にしたらああいうのすぐできてしまうな、と、このジャンルの成り立ちの難しさ、紙一重な部分を悪い意味で体感してしまった。一瞬だけ、あれ?今理解してる?と思ったムーヴメントもありましたが、その後また元に戻ったので、まぐれ当たりだったようです。小道具を使って目先を変えようとしても、それがまたうまく機能せず恥の上塗りになっているのもいたたまれなかった。
 加藤訓子の演奏と次に中村恩恵が控えてなかったら席を立ってたなと憮然としつつダンサーが変わるのを待っていたら、いきなり目の前の世界が変わった。中村恩恵の肉体とダンス言語の説得力、かつ、それを押し付けがましく見せつけるのではなく、全体の調和を第一に考えて引く所出る所をしっかり計算し尽くして、その瞬間その瞬間これしかない、というポーズを空間に置きに行き、それを涼しい顔でシームレスに続ける怖さと優しさ。周りのことを考えず何も見えていないくせに無理やり「何かがある」という虚勢を押し付けられて辟易していたついさっきとは全く違う有り様に心が同調して、同調しすぎてマリンバの辺りで中村恩恵が動く度に私の心にも直接触られそうな感覚に陥ってビクっとなった。その空間の中に私の心もあった。
 フォトグラファーは常に冷静で大人で、ライフセーバーのように舞台の上で任務を全うし続けていたのですが、写真というのはシャッターを切った瞬間にそこに写したものが過去のものとなっている媒体で、この意味合いが本領を発揮するのは、公演のラスト、ダンスが終わったところでこの日のまとめの映像が流れた時でした。数分前まで同じ時間として共有していたものが、既に過去としてまとめられてしまう。その過去を永遠として切り取ってしまう。
 写真特有の「せつなさ」を私はうまく処理できなくて、カメラを構えることがあまり得意ではない。被写体として切り取られてしまう分には頓着しないのだけれども、自分が切り取る側になる時に距離感がよく掴めず躊躇してしまう。考えるより先にシャッターを切るということが私には難しい。難しいからこそ、それができる人をいつも尊敬している。舞台上では常に冷静で大人に見えていた高木由利子もやはりフォトグラファーというハンターであり、獲物を狙う動物であったことが切り取られた瞬間から判明し、そのことに少し驚いた。
 
 最近の私がコンテンポラリーダンスに惹かれている理由は、新しい文法・話法を生み出そうとしている、生み出された瞬間に立ち会いたいということなのかな、と、この公演のことを考えている時に気付いた。新しいものは玉石混淆であり、まだ評価が定まってないものに対して自分の価値観をフル回転させて評価しなければならないことを面白がっているような気もする。20世紀における「ハルサイ事件」が現在起きるならこういう場所なんだろうという勘が働いて、自分の感性を鍛えるため、というより鈍らせないためにも定期的に居合わせたいのではないかなと。この前の日曜日にベジャールの『第九交響曲』をテレビで見てたら、文法・話法が既に歴史に埋もれ始めていることに驚いて、もう生きてないんだと思って、作者が死んでしまうと人が住まない家のようになっていくことを初めて認識して、今までこのジャンルでは元から歴史としてあったものと生きていたものしか知らなかったから、歴史になって行く過程を初めて知って、過去になる前に、今私がきちんと体験しなければならないものがあるのはここだと、やっとはっきり見定めたような気がする。

Kuniko Plays Reich

Kuniko Plays Reich

Cantus

Cantus

*1:http://www.nikkei.com/article/DGXMZO81617640W5A100C1000000/

*2:もともとクラリネットプレイヤーのために作られた曲