子供達を責めないで

marginalism2017-02-22

 Noism1近代童話劇シリーズvol.2『マッチ売りの話』+『passacaglia』埼玉公演を2/9(木)に観ました。観たんです、が、このままだとNoismは空中分解するんではないか、という思いが心に広がるような時間になっていましました。

 こんな時代の空気を感じていると、“踊って、作品を創れて幸せです!”というノリで舞台を創出することはできない、と言う。

金森「高度経済成長時代や、バブル経済の頃は、豊かさと言う余白があったから、既成概念をぶち壊すことをクリエイティブとして行い、陶酔することもできた。でも、格差、貧困、そうした問題を社会が抱えている今、純粋に舞踊だけを見せればいいとは思えない。それができる人たちもいるのかも知れないけれど少なくとも俺は、世相と全く関係のないことに集中できない。実は、今回の新作を創ると決めた時、最初は抽象的な作品一本で行こうと考えていた。でも、これだけ問題が山積になっている社会の中にいると、抽象的なことをやると自分が現実から逃げているように思えてくる。特に、Noismは、(平たく言えば)税金で作品を創っているわけだから責任がある」
(Noism Supporters #30の金森穣インタビューP3より)

 この発言を受けての作品がああなっていたと思うと、責任を負って創ってすごいですね、とは私は言えないです。

 2017年現在、我々は非常に困難な時代を生きています。世界中のいたるところでテロが起き、その因果関係を読み解くことの難しさは、専門家たちが世の趨勢を見紛う事態からも顕著なように、もはや誰にも理解できぬほど複雑に絡み合っています。このような時代において我々にできることは、複雑な事象に対する解を短絡化することではなく、ポピュリズムによって集約することでもなく、複雑な事象を複雑なまま、多様な価値を多様なままに、その“混沌”を享受する強さを身につけることではないでしょうか。そしてその強さとは、恥ずかしげもなく高尚な理念を掲げ、同時に成す術なく卑近な己を噛み締め、自らのその足で歩いていくことでしか、養えないものではないでしょうか。
(近代童話劇シリーズvol.2『マッチ売りの話』+『passacaglia』プログラムより)

 ここに書いてあることはごもっともだとは思います。でも、貴方の場合はその前にやることあるでしょう、と。金森穣が一人で視野狭く前のめりで歩いていくだけじゃ駄目なんだ。

 前半の『マッチ売りの話』の意図を私は掴みあぐねました。それは不条理劇を下敷きにしているから、という高尚な次元ではなく、単に作品としての完成度が低かったからです。生煮えだったからです。ダンサーごとに作品理解度・咀嚼度が異なって温度のムラが激しかったからです。何が起こっていたのだろうと登場人物のキャストの名前を終演後に確かめたら腑に落ちました。高らかな宣言と裏腹に異文化への配慮がなされてなかったからことが理由の一つだと判明したからです。

 第1部『マッチ売りの話』ではほぼ全員が面をつけています。面をつけている意味は何だったのでしょう?キャスト内で意思統一されていたでしょうか?中川賢や石原悠子は理解していたと思うんです。その人たちが踊ると何かが見えかけました、が、他の人が入ってくると途端にまたうやむやになってしまうんです。うやむやなまま踊っているから。特に男性陣で戸惑いが強く伝わってくる人たちがいました。結局あれは何だったんだろうとキャスト名を確認したところ、その人たちは台湾人ダンサーでした。
 日本の人にとって「面をつける」という行為はどういうことなのか、特にNoismは新潟のカンパニーですから能楽をベースに共有しているものがあると思うんです。能楽師が能面をつけるほどの意味を表現できなくとも、おぼろげであろうとイメージは少なからず持っているはずなんです。でも、台湾の人はそれを共有していない。共有していない人が悪目立ちしてしまっている。この悪目立ちはダンサーに責任があるわけではない、演出家が適切に導けなかったのが問題だ。

 最近の金森穣はカンパニーの若い人たちに苛立っているように思える。自分が要求するものを自分が要求するレベルで答えてくれないことに対してフラストレーションを溜め続けているように思える。舞台上の若い人たちが可哀想にも思える。昨夏同じ会場で観たNoism0は素晴らしかった、けど、その素晴らしさは「大人最高!何も言わなくてもやりたいことわかってくれる!きちんと自分で仕上げてくる同世代のパフォーマーは楽!」という前提があって成り立っている。見方を変えると若い人たちを突き放している。私が今ここのカンパニーの若いダンサーだったら萎縮して自信を無くして踊ることが楽しくないと思う。演出家本人の問題意識を若い人たちが理解できるように噛み砕いて伝えて向き合う作業を放棄しているからこんな舞台になってしまったんだと思う。

 そして作品理解度が図抜けて高い井関佐和子にも依存していないだろうか。最後まで観ればわかるんです、ああ最初のシークエンスは処女懐胎のモチーフかと。その後に出てくるダンサーたちの姿は世を忍ぶ仮の姿かと。第2部『pasacaglia』はわかりやすいです。全員が意識の共有できているから。温度差ないから。Noismの基礎を押さえて創っているから。だからこそ、前半で放り投げたものも見えてきます。『マッチ売りの話』でも意識の共有ができていた部分はありました。『スリラー』だと全員が共有して踊っている部分はとても楽しそうだった。ずっと戸惑っていた若い人たちがやっと安堵したように見えた。でもそこまでの長い時間、若い人たちをこんなに不安にさせる大人はよろしくないなと少し怒った。

 自分の周囲にいる迷える子羊をネグレクトして高尚な理念を掲げるのは愚かな行為だ。近くにいる人に八つ当たりしているだけのような舞台に足を運んだ人間もまた置き去りにされてしまう。『ラ・バヤデール―幻の国』の時も感じたけど、金森穣の空回りは何が原因で起こっているのだろうと気を揉んでしまう。このままだとカンパニーが空中分解してしまうか大化けするかどちらかなんだけど、それはただ一点、金森穣の焦燥がどこに着地するかにかかっている。

 そして私、金森穣が提起している問題に対して素晴らしいクオリティで回答を出した作品を知っているんだよね。

 この人うだうだしてないで一刻も早くマーティン・スコセッシの『沈黙-サイレンス-』を観ればいいと思った。正直私も金森穣と似た程度でしかキリスト教モチーフをこねくり回せないんだけど、そのことを恥ずかしくて情けないと思ったし、そのことは高々と掲げられるほど恥を知らないわけでもない。もう本当にドヤ顏で書き連ねた文言を消し去りたくなるし、恥ずかしげもなく高尚な理念を掲げている人がどうなるか/成す術なく卑近な己を噛み締め、自らのその足で歩いていく人がどうなるかを見事に描き切っているあの作品に触れてそうならないなら芸術家を名乗れないです。
http://chinmoku.jp/

Biber: Rosary Sonatas Nos. 1 - 15 and Passacaglia

Biber: Rosary Sonatas Nos. 1 - 15 and Passacaglia

神様を信じる強さを僕に

marginalism2017-02-08

マーティン・スコセッシ監督作品の「沈黙 -サイレンス-」、公開3日目1/23月曜日にまず観に行きました。
私が映画を一人で公開週に観に行くなんて初めてではないだろうか。でもやっぱり少し外れた場所のレイトショーだと公開3日目なのにほとんど人いなかった良かった映画館だけどパニック発作起こさなかった。
観終わった後、とても幸せな気持ちになりました。20年以上待った甲斐があったな、窪塚洋介が出てくるまでキチジロー役粘って良かったなって。

映画の内容はほぼ原作に沿っていますから、もちろん幸せとはあまり言えないものではあるんですけど、とにかく日本と原作と役者に対するリスペクトしかスクリーン上にはありませんでした。原作未読だと衝撃を受けるのかもしれませんが、原作読者は「ずいぶん描写がマイルドになったな」と思われる向きも多いのではないかと。それで原作にこのシーンあった?と思って読み直すとスコセッシは原作でしっかり描写されていた部分をさらっと、さらっと触れられていた部分をしっかりと映画に起こして、原作を補完した作りになっていることがよくわかった。160分、どこにも気を抜ける場所なし捨てカットなしで、完成度が恐ろしく高くて、ああこれが世界の巨匠というものなのかと驚きました。

この映画の捉え方はクリスチャン・ノンクリスチャンで分けられたりしますが、日本にはノンクリスチャンのミッションスクール出身者という一大勢力があり、そういう人々はキリスト教伝道最初期のセミナリオというミッションスクール出身者・浅野忠信演じる通辞の生き方に共感できることも多いのではないかと思います。なぜ我々は洗礼を受けなかったのか、それをむしろクリスチャンに知らしめている存在が浅野忠信演じる通辞であり、イッセー尾形演じる井上筑後守です。浅野忠信イエズス会士に受けた仕打ちをロドリゴにぶつけるシーン、私にも覚えがある。

私が初めて人種差別を受けたのは高校1年生の時でした。上智からイエズス会の偉い神父様がおいでくださった時に挨拶したら、私はクラスの中でも英語が苦手な方だったので「なんで俺がこんな英語もろくに話せない田舎娘の相手をしなきゃいけないんだ」とすぐさま顔に書いてあった。それからずっと「野卑なイエローモンキーが」という扱いをその神父と接している間受けた。当時まだ海外に行ったこともない田舎娘はなかなか白人に会う機会がないので何となく名誉白人気分で生きてきたけれど「今!私!人種差別を受けている!」「そうか私は黄色人種なんだ!白人とは違うんだ!すごい!聖職者からずっと見下されてる!」と刻まれた経験は大変印象深く残っていて、その後間もなく原作の「沈黙」を読み始めたら「イエズス会って昔からそういうところなんだな」と噛みしめたのもよく覚えていて、それが浅野忠信の肉体を通して改めて語られると、もはや懐かしい気分になりました。

ただ、原作の描写は全般的に荒んでいますが、スコセッシは誰も彼も徹底的にピュアに描いてます。映画の仕上がりもピュアです。塚本晋也演じるモキチや笈田ヨシ演じるイチゾウその他トモギ村や五島のキリシタンは全員ピュアなのは言うまでもないですが、キチジローもロドリゴもガルペもフェレイラも通辞も井上筑後守も役人も非キリシタンの民衆も全員ピュアです。それぞれがそれぞれの在り方でピュアだからこそ、それぞれが傷ついて哀しいのです。

キチジローのキャスティングが大変難航したと聞き及んでいますが、結局、窪塚洋介が情報解禁でツイートした時の衝撃が一番強かったなとも思います。窪塚洋介がハリウッド映画に大役でデビューするよ、というようなお知らせを見て、え、何?フカシ?とか気を抜いてよく読んだら「沈黙」のキチジロー役ってマジで大役じゃねえかよ!これガチ!?キチジローそのアプローチ!?そうきたか!などとしばらく動揺と納得がごちゃまぜになっていました。
ツイート見てすぐ記事になって、その時にキャストの名前が何人か上がっていて、役名並記のイッセー尾形浅野忠信塚本晋也はともかく、そこに連なって村人と書かれた加瀬亮の名前もあって「あ、これ、キチジローは窪塚洋介加瀬亮で迷ったな」とその時思いました。原作のイメージのキチジローなら加瀬亮の方がうまくできるなと。

スコセッシが「沈黙」映画化するという記事を20世紀末に見かけた時はキチジロー役がイッセー尾形だった記憶があって「ああキチジロー役ハマりそう」と思った記憶もあって、でもイッセー尾形がキチジローをやるには難しい歳になってるしどうするんだろう?と頭の片隅にずっとありました。本当にちんまりと何年かごとにスコセッシが「沈黙」作るよ・中止になったよ・やっぱり作るよ・延期になったよ・「沈黙」の前に他の映画片付けるよ(しばらくこれのループ)→もういい加減作る作る詐欺やめろと訴えられたよという情報を細々と更新してきたので、ノーベル文学賞直前のオッズにボブ・ディランの名前を今年も見つけてネタ枠健在でほっこり的な風物詩として楽しんでたらボブ・ディランは本当にノーベル文学賞取っちゃうし、スコセッシは本当に「沈黙」完成させちゃうしずっとネタ扱いで楽しんでてごめんなさい、と一人で頭をさげることこの数ヶ月で2回だ。

キチジローが見つからない、で延期になったような記事もどこかの段階で見かけたような記憶もおぼろげながらあって、それは私が記事を読んでそう解釈しただけなのかもしれないけど、でもまあ他の役はそれなりに見つかるだろうけど、キチジローって本当に難しいよなどうするんだろうな、イッセー尾形もう無理だしなと気にかけてたらヒーロー見参ですよ。その手があったか!その路線で行くか!と本当に感服した。実際問題、原作読んで受けるロドリゴとキチジローの関係性なんて太川陽介蛭子能収みたいなもんなんですよ。蛭子能収は長崎弁喋れるし。非常に小狡くて薄汚いネズミ男みたいな描写なんですよ。そんな人間を原作通りうまく演じる役者が欲しかったのなら加瀬亮をキャスティングしていたと思うんです。彼は英語も堪能だし「ぐるりのこと。」で演じた幼女誘拐殺人事件の被告良かったし、ああいう役を忠実に忌々しく演じる姿も想像できるんです。
でも、窪塚洋介のキチジローを想像してみたら「なんて無垢なんだろう」とキチジロー像が一変されてしまい、赤ちゃんのようにイノセントなキチジローというのが見えたんです。神父にすがる姿もどこかあどけなくて哀しくて痛々しいキチジロー。どこまでも無邪気で常識に囚われないキチジロー。私、本当にキチジローが嫌で原作うまく読み返せなかったんだけど、キチジローのキャスティング知ってあれに窪塚洋介の肉体を与えて想像したら興奮してしまい、居ても立っても居られず即文庫本探して読み直しました。そうするとやっぱり原作の風景が塗り変わったんですよね。本人のオーディション演技プランでも「イノセント」をキーワードにしてたみたいで、自分の売りどころよくわかってんなと感心したけども、映画全体のトーンを決める大事な役だから、スコセッシが窪塚洋介を見つけてどれだけ安心して興奮したかもわかる。よくわかる。一番妥協しちゃいけないキャストでこれはもう福音ですよ。このキチジローでやっとスコセッシが原作をどういうコース取りで扱えばいいか見えたんだと思う。原作に忠実と自他共に判断できるラインの中で最大限キリスト教カトリックに甘い作りになっている、少しでもバランスが崩れると一気に陳腐になる極限のライン。これを可能にさせたのは窪塚洋介だと私は思う。他の日本人役者と比べても異彩を放っているからね。それは私たちが普段窪塚洋介と聞いて想像する窪塚洋介なんだけど、ハリウッド映画でも通じる異彩だったっていうのは収穫でしたよね。本人にも観客にもハリウッドにも。

そして一方の加瀬亮も映画の中でスコセッシ成分を担うという大切な役割を果たしていて、ちょっとそこで泣きそうになった。加瀬亮も大事に扱ってもらえて良かったって。「沈黙」じゃなくて「スコセッシ作品」を見に来た人へのサービスでしょうあれ。ただの村人じゃなくてきちんと原作にも名前がある人で物語に対する役割もあって英語も使わせてもらえてて、それなりの待遇はしますよ、と大切にされていて良かった。朝ドラヒロイン最終オーディション落ち親友役的な見返りはあって良かった。加瀬亮が現場にいると重宝すると思うんだよ英語とか文化とかそういうところで。それもあるし浅野忠信と一緒に重要な映画に出られて良かったなとも思うし、一人一人の俳優にこんな心配りをできるからこそ巨匠なのかという凄みも感じました。
スコセッシにとっての神はこの映画で描かれている神なんだろうけど、日本的感性を持った日本人キャストにとっての神はスコセッシその人でしょう。そうやって考えると、この映画では実は誰も神を諦めてないんですよ。信頼して付き従って歩き続けているんです。映画の中の江戸時代初期の日本人とそれを演じている現代の日本人の感覚は変わらないんです。なんだか尊敬に値する人が信じているものがあるから自分たちもそこに続こうってだけの純粋さを誰が否定できますか?原作は遠藤周作という小説家がキリスト者と文学者の間で引き裂かれてカトリック教会に孤独に戦いを挑む構図だったので、それはものすごく刺さる。カトリック教会に極東の島国の一介の信者が信者であるまま喧嘩を売るって途方もない覚悟がないとできないです。それでも彼はキリスト者であるよりも文学者であることを優先して文学への殉教も視野に入れた上で戦ったわけです。それに対してスコセッシはクリスチャンであることとフィルムメーカーであることを両立させるためにこの映画を作っています。スコセッシが戦ったのはカトリック教会ではなくて己の良心。そして一緒に戦ってくれるのは塚本晋也のモキチであり窪塚洋介のキチジローなのだから負けるわけがないんですよ。

この映画あと3回は劇場で観たいな、シネスコサイズだし字幕松浦美奈だし信頼できない要素も嫌になる要素もないし、などとずっと興奮しつつ過ごしてましたら1/31に窪塚洋介塚本晋也イッセー尾形の舞台挨拶があると。まあ行くよね。その日ちょうど舞台挨拶がある映画館方面に行く用事もあったし行かなきゃならないよね。何回か映画館に行く中の一度くらいは舞台挨拶があっても良かろうと割と軽い気持ちで行きました。

舞台挨拶に特に何も期待してなかったんですけど、素の状態の窪塚洋介がパブリックイメージの窪塚洋介と違ったことに驚きました。独特の華はあるし、演技も魅せるし、でもおかしな発言をしてる人ってイメージじゃないですか、少なくとも私は彼のパブリックイメージはそういうものだと思ってるんですけど、あの人実はものすごく長男的な気配りの人なんだよ。話きちんと落ちるかな、うまくまとめられるかな、お客さんで終電間に合わない人大丈夫かな、こっちのカメラはうまく撮れてるかな、みたいにいちいち周りを見てる。そして常に助け舟を出そうとしている。それがうまくフィットしなくて滑ってるとか空回りしてるとかいうような評価になることも多そうだけど、それ以上に事前におかしな方向に行きそうな芽を摘み取っていて、長男であることが身に染み付いているきちんとした家の優等生の地頭がいいお坊ちゃんという印象が強く残った。そして生まれ持った個性が長男長女という役割とあんまり相性が良くない人特有の不器用さもまた強く感じました。
似たような印象を私が抱くのは安藤美姫なんですが、こういう人たちの叩かれやすさって海外と接点を持って解放される以外ないんですかね?あのバビロンシステムがどうとかいうのもね、舞台挨拶での窪塚洋介の立ち振る舞いから推測するに、メディア通してとかツイッターという文字数制限があるところ以外できちんとサシで話を聞いたらそれなりに納得が行く論理はある気がするんだよ、ただサービス精神もあって苦労もしている人だから、映画の宣伝で記事にしてもらうためにキャッチーならどうぞお使いくださいってスタンスで「おかしな自分」というイメージを訂正してないだけだよね。あえてあまり人に悟られないようにしてるけど自己犠牲の精神にあふれてて、キチジローとは全然違う人だなと、むしろああいう人に憧れてしまう人なんだなと、人一倍空気を読んでそのシチュエーションで最初に誰かがやらなければならないなら踏み絵も踏むけど、場合によってはモキチのように磔になってもいい人なんだなと、うまく逸脱できない自分に対しては既に諦めて達観した冷静で優しい眼差しを感じました。こういう人が逸脱の権化のようなキチジローを演じるのは楽しかっただろうな。良かったな。

この映画に関する私のあらゆる気持ちは「良かったな」この一言に尽きる。

沈黙 (新潮文庫)

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遠藤周作と歩く「長崎巡礼」 (とんぼの本)

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『沈黙』をめぐる短篇集

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遠藤周作『沈黙』草稿翻刻

遠藤周作『沈黙』草稿翻刻

Silence

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ぐるりのこと。 [DVD]

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好奇心は私を生かす

2016年は発達障害を始めとした医療中心に生きようと思ったら思った以上に医療に振り回されていましたので、医療の記録のみ書き出します。というか、本当に他に何もしてない。ここにこのエントリ以外に書き留めてあることで医療以外にやったことは夏の選挙とここ40日の部屋の掃除・片付けくらいだ。

1月:昭和天皇崩御の日にWAIS-3検査を受けています。結果的にこの検査結果を受けて「これは発達障害と言わざるを得ない」と本当の確定診断が出た瞬間にコンサータも処方されました。え?いきなり!?最初ストラテラから様子見とかじゃなくていきなりコンサータ!?と思ったんですけど、それがまたよく効いて。よく効きすぎて後に問題になりますが、この時点では「普通の人ってこうなの!?」と人生観が変わるほどの衝撃を受けていたのみでした。
ついでにWAIS-3の数値結果を晒しておきますね。

全検査IQ:114 言語性IQ:121 動作性IQ:101

群指数
言語理解:129 知覚統合:101 作動記憶:102 処理速度:84

下位検査
単語:18 類似:13 知識:14 理解:18 算数:10 数唱:7 語音:14
配列:13 完成:9 積木:10 行列:12 符号:7 記号:7 組合:10

下位検査結果に大きな差が認められる:あり

ちなみに結果報告の文章で『言語的理解と自身の考えを他者へ伝える能力において高い能力を有していることが示された』(原文ママ)という一節があるんですけど、その他の様々な臨床的アプローチから医者にADDに加えPDD(広汎性発達障害)も併発してて軽くコミュ障ってファイナルジャッジいただきました。矛盾してね?とか思ったんだけど、書くのと喋るのが全く勝手が違ってシチュエーションによっても極端に差が出て困ってるからそれをコミュ障って言われてるんだと納得しました。ADHDアスペルガーの併発じゃなくてあくまでもPDDとしか言えない症状なんだって。アスペルガーではないんだって。

2月:(12日のメモより→)コンサータ18mgが画期的に効いたので感動して語ってたら「それ子供用の量」って言われて27mgに増やされる。27mgに増えてもそれほど何か変わった感じはしないし食欲も落ちないんだけど、今まで散漫になっていたものが集中した分、体が嫌がるものに対しても敏感になったようで、小麦粉を嫌がっているような気がしたからグルテンフリー生活を試してみたところ胃のむかつきや首の後ろから後頭部、頭全体がどんよりと重く痛くなっていく症状が消える。グルテンアレルギーかな、と報告する。
(26日のメモより→)18mg→27mgでは9mg増えた効果を感じられなかったが、27mg→36mgでは一段階集中力が上がった感じがする。
この頃に掃除ブーム第一弾が来ていたようだ。

私にとっての「片付けの魔法」は「薬飲む」だった。あのね本当に生まれてこのかたずっと悩まされてきたことがあっさり解決してびっくりした。まだ全然片付け終わってないんだけどさ、1日最低何か1つ捨てる(そこらへんに散らばってるチラシでもいい)くらいに設定すると、腱鞘炎に負担かけない程度にほんの少しずつ部屋がスッキリしてきた。なんだったんだ今まで…というのと、普通の人の「片付けができない」と性質が全く異なるものだとよくわかった。散々読んできた片付け本、知識は蓄えてても実行する脳みその判断力と体力がついていかなかったものがやっと実践でき始めてきている。アウトプットできる感覚がとても嬉しい。もうこれトキメキなんて曖昧な主観に頼るな、医者にかかれ。今は片付け優先してるけど、これが習慣化したら「風呂めんどくさい苦手」問題に着手したい。

ハウスダストは、綿棒使ったらどこかの埃をついでに巻きつけてから捨てる、と思ってたら、段々埃がある場所について意識して把握するようになるんですよ。そして今はハンドクリーナーは1週間に1度は満杯にして捨てる、という辺りも条件として追加中。ハウスダストアレルギーなのに埃まみれの部屋で自己嫌悪ループ簡単に止まった。

薬すごい、今までこうやりたいイメージはあるのに体が異常に疲れ易いため動けなかった分が何故か動けるのは脳に無駄な刺激がバシバシ入ってきて疲労する感覚過敏をある程度ブロックしてくれるからだと思うので、体というより脳疲労が原因だったみたいで、生きてるだけで刺激満載で、自分から刺激を求める環境に私は飛び出す余裕がないタイプだったみたい。ADHD全員が刺激を求める生き方してるわけじゃない、勝手に刺激が入ってきてそれだけでうんざりする人も多い。あれは感覚鈍磨があるんじゃねえのか?と思ってる。

ありとあらゆる情報が刺激として刺さってきてパニック発作起こすくらいなので本気で生きてるだけで常に刺激に晒されてて、あんなの神経持たないのは当然。情報の取捨選択が無意識下にできてる人(カクテルパーティ効果が働く人)と違う工夫が生きるために必要だとよくわかった。

とか浮かれてる。まあのりピーさんが家事やるためにやる気出す薬と構造的にはほぼ一緒みたいなもんだから、ADHD以外が手を出しちゃいけないよなというのも体感としてはわかります。

一方、アレルギーまとめを作ってうなだれてるけど、お前、2月29日の時点でうなだれてるけど、ここから疾風怒濤のマーチが玉突きでやってくるからな。12月31日現在のアレルギー表を12月のところにまとめてやるから見て震えろ。というか、書き起こしてみて2月にまとめたものが今振り返ると食物系三つしかなくてこれで泣いてた自分に笑う。いきなり主食系の小麦食べられなくなるとただの一品目じゃなくてあらゆるところに紛れてて大変だから気が滅入るのもわかるけどな…

小麦(グルテン)アレルギー
りんごアレルギー
カフェインアレルギー
ラテックス(ゴム)アレルギー
紫外線アレルギー
アルコール過敏(下戸)
タバコの臭いで咳喘息
肉を食べると具合が悪くなる

グルテンに反応してるだけみたいなので、2016年12月31日現在でも醤油や味噌などの調味料はOKです。

3月:少しずつ部屋の掃除・片付けを進めて甥っ子がくれたものでアートコーナー作って弟の誕生日に喜んでる。食欲落ちて痩せると言われているコンサータを服用し始めて食欲は変わらないのにむしろ体重は増えていることに疑問を持つ。食欲も体重も落ちてないなら問題ない扱いをされてるけど、この後これも少々問題に。体重は服用前に比べて約2kg増で落ち着きました(夏場は更に1kg増量は例年通りだった)。それでなんとなく流行に乗って15日にチアシード買ってますね。私、ダイエットではなくお通じ的な意味で感動してチアシード手放せなくなったのはここからだったんですね。この頃は太ってしまったのも一時的なものかどうかわからなかったし、体重気にしすぎると食べる量が自分の必要な量に達してなくて動けなくなったりしていたから食事はレルギー以外はあまり気にしてもいないです。運動しようとは思って踏み台昇降運動をなんとか継続できているようです。

4月:認知行動療法開始。なんかもう2月くらいから緊張で喋れなかったらどうしようってメモすんごく細く書いて医者に見せてて4月からは臨床心理士にも見せてるんだけど、今自分でも読みたくない分量の報告が上がってて強迫観念つええなーって他人事のように思いました。どれだけボコられてきたんだっていう傷跡を見てもいるようで少し辛いね。全部言わないと報告し忘れがあるんじゃないかって報告し忘れると殴られるって追い詰まってるんですよね。そういう育ち方しかしてなかったんですよね。
そんで自閉症の子に世界がどう見えているか、という動画に共感してて。これ感覚過敏の私も似たようなもんで、そこでアスペルガーではないけども広汎性発達障害併発と診断されたようで、でも私は一般的な見え方がわからないのでこの動画で私たちの苦しさが伝わっているのかいまいち疑問ではあります。これが日常でこれしかないから、この世界の見え方が普通なのか違うのかわからない。
https://youtu.be/Lr4_dOorquQ
https://youtu.be/Lr4_dOo
熊本地震発生で避難所にいる食物アレルギーの人に想いを馳せる。
そんで自律訓練法をやったら低血糖起こして肩で息してて、ただの呼吸でどんだけ体力使ってんの?とか笑おうとしたら臨床心理士の先生ドン引きしてて、あれ?私他の人より更におかしい?え!?ってなって、お風呂でも休み休みじゃないと体力持たなくて頭や体が洗えないのって私みたいな症状の人の中でも珍しいのかな?って疑問が湧き始める。

5月:疲れやすさをそれまで自分なりに伝えてたはずが伝わってなかったみたいで調子の悪いコミュ障にとって病状説明の難易度の高さを思い知る。やっと伝わったら首元見られて腫れてるとか言われて症状がバセドウぽいとかで甲状腺の検査受ける。意識高いわけじゃないサバイバル小麦抜き生活のエンゲル係数がひどいことになってケースワーカーさんに相談してる。この頃は本気で生活が回せるか心配だった。麦を食えない貧乏人は即座に詰むので池田勇人正しいなと噛み締める。麦を食えない貧乏人ガチで死ぬ、いろんな意味で。食事がいちいち面倒なのと金銭的な苦しさで精神的に相当追い詰まってた。23日には紫外線アレルギーで本格的にやられ始めてる。26日に血液検査で甲状腺問題なかったから今度はアレルギー徹底検査。この辺りからADHDスイッチ入って病名欲しいブーム到来でガンガン検査受けてやろうじゃないかモードに。そしてある意味今年最大のターニングポイントイベント、キウイアレルギーを28日に発症。非日常事態に顔文字とかハッシュタグつけてSNS報告してる場合じゃなくて119番事案だったと知るのは少し後です。

【悲報】ゼスプリキウイを食べたら唇と舌がヒリヒリ痛痒くなって腫れてる(´・_・`)またアレルギー発症したの…?あと3個残ってるんだけど、これどうすればいいの…?私は何が食べれるの…? #ゼスプリ #食物アレルギー #キウイアレルギー疑惑 #アレルギー検査 受けたから待てば良かった #本気泣き #エンゲル係数急上昇 #助けて #本気で助けて #生活できない #2日続けて採血検査で今頃疲労が #疲労原因を探るための検査で動けなくなってる

めまいしてきたんだけど、これはキウイ原因なのか疲労原因なのかわかりません、あ、喉にかゆみが降りてきた
5月28日 18:45

変な時間にめまいで倒れたまま寝て変な時間に起きたらなんでミラノまで行かなきゃならねえんだよマドリードでやれよというCL決勝に間に合ってしまって見てるんだけど、ジダンの頭を撫で回したくてしょうがない、ツルツルの触感大好き。でも口回りまだ痛いというか外に出れない顔になってるから今ジダンに会えない。あとフジ実況西岡さんかと思うんですが会場ジュゼッペ・メアッツァって言った。この人インテリスタだ!

こんなことのんきに書き込んでる場合でもない。気づいたらCL決勝の時間帯ってざっと8時間くらいは寝てたんじゃなくて気を失ってたんだよ…

CL見て寝ようとしたら手に力が入らなくなってたんです。腱鞘炎で力が入らなくなったり痺れたりするのはよくあるんだけど、それと違う感覚なんです。呼吸も少しだけどしにくくなってて、気道が腫れてる感覚あるんです。フグに当たるってこんな感じ?アレルギーで手に力が入らなくなるってあるの?と思って調べたらアナフィラキシーショック起こしてる時そうなるみたい。足の力は入るんだけど手が入らない。私もうキウイ触らないようにする。

試合見終わってこんな状態になってます。ただ、5月の血液検査では肝臓の数値おかしくなかったんだね私。薬剤性のものはこの時点では否定されてる。

そんなこんなの狂想曲を繰り広げている一方、中旬に婦人科でエコー検査を受けたら子宮腺筋症と卵巣の腫れが消えていて、腺筋症跡地に子宮筋腫だけ増えて残されていたという不思議現象が。久々に健康問題で明るい方向の検査結果で喜んでる。記録してませんが、この辺りから3年くらいツルッツルだった陰毛の円形脱毛症地帯にも毛が生え出してたことに気づいたと思います。

6月:1日に友達が私のアレルギー対応パウンドケーキを作ってきてくれた。もらってすぐ嬉しくて泣きながら一切れ食べたら体力使って寝てしまう。

キウイ食べて4日目。やっとこさ全体力総動員して風呂に入ったところ石鹸がやたらしみる、よく見たら手湿疹が出ていた。4日目にして出た。熱中症起こした時と身体がおかしくなってるフィーリングが違って苦労した。内臓まだブヨブヨしてる感じある。病院に電話したらどうやらめまいを起こした時点で119番する事案だったらしいです。SNSにアップするより救急車、これは「貧すれば鈍す」と「人様に迷惑はかけてならぬ」がミックスした結果、いざという時の「いざ」を見誤った私という愚か者が命がけで伝える教訓なので賢明な皆さんは覚えておいてほしい。

10日にアレルギー検査結果聞きに行ったらオール陰性でよく振り返ってみると心が折れる方向じゃなくて病名欲しいブームにターボ搭載されてる。

アレルギー検査結果まさかのオール陰性…非特異型IgE値調べてなかったから少し経ってからそっち調べましょうってことになった。実際にかぶれてる部所見せたのに、「確かにかぶれてますね」とかいうのに検査結果はいくら見ても全部陰性。私の体がいよいよわからない。とりあえず現状維持の食生活で様子見だってよ…原因わからなすぎて怖い。すぐ検査しても数値変わらないから季節変わったらだって…病名ください!もう病名不明でこんなに体調悪い状態に疲れ果ててる!

翌日、以前皮膚科でアレルギー検査を受けた時も何にも出なくて、でもアレルギー検査は体質で結果に出ない人もいるから検査結果気にしないで症状に対応しろと言われたこと思い出す。この辺りでエアコンつけ始めてるので加速度的に弱っていきます。夏にはとにかく滅法弱い。弱っているからか食物アレルギーが大輪の花を咲かせ始める。

小学生くらいには既に悩まされていた口内炎がとんとできなくなった、と思ったら、SOYJOY食べたらその後口内炎ができるときみたいな感じがしてきて、成分表見たらアーモンドと卵入ってた…どっちに反応してるのか、どっちもなのか、とにかくやっと見つけたSOYJOYが安住の食べ物じゃないことが判明した。食生活難しい、が、口内炎が一つの指標というか、小麦・卵・アーモンド・リンゴ・キウイ・カフェイン(・アボカド)を抜くと口内炎ができないぽいです。まさか口内炎の原因がアレルギーだったとは…小学生くらいからずっと食物アレルギー反応してたってことか…人体実験の検証は今口内炎にかかってる。卵は確定ぽいけど卵白だけか卵黄もダメなのか、というのと、アーモンドとアボカドについてはもうちょっと検証の余地ある。肉については、アレルギーなのか精神的なものなのかわからないのですが、またの機会に触れたいです。

20日SOYJOYクリスピーシリーズは卵・アーモンド不使用だと気づいて無印SOYJOYの買い置きが無駄になったことも同時に判明してます。22日には気象病でぐったりしてる。気象病で寝落ち体験が頻繁にあったためにアナフィラキシーショック初動を間違えた。気象病の時と同じ感じだったからさ…部屋の掃除ブームは24日のSNSによると、どこかで途切れてたみたい。

部屋があっという間に埃まみれになってるのにハンドクリーナーを持てなくてじっと見ている。体のバランス崩すと結局最後に腱鞘炎残る。健康ってどんなものだったか忘れてしまった。手首ひねる動きほとんどできない。

ちょっとアーモンド食べたら口の周り痒くて眠れない。これアレルゲン確定。とも記していて食事が怖くなってきているようだ。

7月:選挙!参院選!などで基本的なテンションがぶち上がっているので投票前日に卵食べて気持ち悪くなってアレルギー確定させたり10日から11日にかけて最後の一議席が決まるまで開票速報実況してたり体力使い果たしてるのにヨガ行って熱中症起こしてうまく回復できなくて心臓がおかしくて大の字になると苦しくて眠れなくて左下にしないと横になれなくてお風呂にも入れず病院の予約日を間違えて結果的にカウンセリング1回すっぽかしてそのことで頭真っ白になって心臓おかしいって言い忘れて、でも選挙マニアとしては都知事選投票行かなきゃって31日も心臓おかしいまま投票行ってます。これぞADHDというか死ぬぞこいつ。ろくに記録を残す力もないのに選挙だけは死んでも行くってアドレナリンが出てる。


8月:熱中症がおかしすぎて塩を直舐めしてる。リオ五輪を見る体力もないのでTVが五輪一色なのに気づいて驚いてるのが11日、熱中症起こしてから立ち上がるだけで筋肉痛とたまに息切れすることをやっと熱を出しながらもたどり着いた病院で報告したら脈を計測されてただ座ってるだけで132とかいう数字弾き出して先生の顔色変わって心臓専門医に紹介状書かれた。体重が増えたのがむくみの可能性出てきた。帰途日が暮れていたのでアームカバー外したら半袖ってだけで涼しくて泣きたくなってる。
お盆休みがあったので17日に心臓専門医初診で一般的な心臓検査を受けてます。医者の第一疑惑がバセドウ病(3ヶ月ぶり2回目)で、私これ血液検査で正常値で引っかからなかったと云う5月の結果の紙見せたんだけど、もう一度検査しましょうって、なんか項目も追加されてた。どうも医者のファーストチョイスがバセドウ病に見える症状らしくて病名ジプシーそろそろ打ち止めかなーバセドウ病なら治療法あるからラッキーだよなーとかいう境地に達してる、というか、それくらい病名がないのはしんどい。けど、心臓おかしくてゴミ捨てに行くのも一苦労なのに24時間ホルター心電図検査受けなきゃならなくて二日連続で病院行かなきゃならないのパニック障害持ちにとって割と地獄。心電図測定用のシール貼ったところが2時間弱でかぶれてアトピーもつらい。病院の待合室で高畑淳子の会見流れててもうあらゆることがやるせなくてしょうがない。動けないので全身たれぱんだみたいな状態になってて人ってこうやって弱っていって死ぬんだなと実感していた。

9月:とにかく8月が長かった。毎日毎日、死に近づいてるんだなと噛み締めるほど弱っていた中、唯一の希望が病名ジプシー打ち止めバセドウ病ほぼ確定だろ、という気持ちだったのに現実は厳しかった。甲状腺腫れてるように見えるのにエコー検査結果で何も異常ないの。血液検査ところどころ高いのは肝臓と家族性疾患由来の中性脂肪のみ。ただ24時間ホルター心電図検査で歩くだけですぐ150-160位まで上がってそれは確かにおかしいからと、とりあえず頻脈抑える薬だけはゲットできた。本当に洞性頻脈だけなの?と思いつつも病名ジプシー死のロード打ち止めにならなくて少し飽き始めてきてる。ADHDのマイブームが医療だと札ビラ切っても怒られないというか同情されるので医療費に積極的につぎ込んで行く姿勢はキープしておきたかったんだけど、競馬とか選挙グッズとかフィギュアスケート関連商品とかより世間や親戚の目が優しくなるのでマイブームが病院で検査!採血で失神するからベッドに寝かされつつ血液検査!というせっかくの状態が終わりそうで怖い。体がおかしいから検査してるって言ったら金貸すからもう人間ドック受けろとまで言われるくらい医療にハマってると親族が親切になるのに、実はこれ競馬にハマってる時と精神状態そんなに変わらない。馬券に金つぎ込んだら人間失格感半端ないのに医療に金つぎ込んでると周囲が手助けしてくれる。手段が目的に変わっても誰にも文句言われない医療すごい。ここにフィーチャーする私のADHDもすごい。探究心と好奇心が自分の体の状態に向かって、すんごい疲れやすくてもうこれ慢性疲労症候群じゃないっすか→首腫れてるし甲状腺関係じゃねえかな?症状典型的なバセドウ病っぽいしまずそっち検査な→ごめん違った→じゃあなんだべか→血液検査で調べるから待て→待ってる間になんか他の症状が出たんだけど(アレルギーとか心臓とか)→それも検査するわ→全部検査で問題ないんだけど→じゃあ私のこの苦しみはなんだってんだよ→自律神経じゃね?ループを重ねてはブチ切れて薬出せや治療しろや!となるところに頻脈抑える薬出されてなんか少しクールダウンというかクールダウンしちゃったら全て放り出しそうでそれはそれでまずいのも感じているので、あわあわしながらともかく頻脈はなんとかしないとならないから薬飲んだら2ヶ月ぶりくらいに掃除機かけられるようになってた。夏の間ずっと掃除機かける体力すらなかった。でも部屋全体に掃除機かけて満足してたら手に力が入らなくなってきてるので、これでも無理をしている状態。医者に医療が追いついてないと言われる。

医療が私に追いついてない、だけだと誤解生みそうだからもう少し詳しく説明すると、頻脈治療はわかった、でも他のこれとかこれとかは何?→何かあるんだろうけど今のところ医療が追いついてないから原因よくわからないし病名がない、病名は後からやってくる、というようなことです。病名より先に走ってるトップランナーです。現代医療の限界突破した。

それで一応これ可能性潰しておこう、もし陽性でもその病名なら病名ジプシー打ち止めに悔いなし、ということで誕生日またぎでHIV検査してみたけど陰性でした。「むしろ今HIV治療法あるじゃないですか!病名欲しかったんですけど!」とか言い出して検査機関の人を困らせる。いやあのね、陽性の人も切実だと思うけどね、私も切実なのよ。口を開けばいちいちたしなめられて「あれ、なんかこれ徹子やレミをあしらってる清水ミチコみたい」って思ったというか、私が発達障害で徹子やレミサイドの人間だったこと思い出した。徹子やレミが真面目にやってああなんだってよくわかった。この頃には膠原病などの自己免疫疾患を疑ってる病名ジプシーな姉に対して弟がさっくり難病指定疾患診断受けててなにそれずるい!ってなったのは9月下旬のようです。安倍晋三のやつっていえば通じる病名なのもチート。同じ病名の有名人いる難病って便利だよな!しかもいい薬出て安倍晋三が復活したってみんな知ってるのに難病っていうその病名ずるい!薬が効く難病羨ましい!でも弟の難病発覚イベントで医療に対するモチベ上がってマイブームを延命できたのでそこは感謝してる。あ、トマトアレルギーもこの時期に追加されました。

10月:弟難病イベントにかこつけて人間ドック受けたいと訴えたら今の状態だと残ってるの頭部MRIと腹部エコーと尿検査だけだし保険診療で可能だということで即予約入れる。閉所恐怖症か問われるんだけどむしろ閉所を求めて居場所を探す性質なので全然平気というか下半身を入れてもらえなかったことで逆に落ち着かなかったのと、検査中のインダストリアルな音がノイズやテクノが好きな人ならキマるんでしょうが私はその辺り苦手なので結構疲れたのと、何より音がたまに途切れてヘッドホンから聞こえてくる音楽が「シンドラーのリスト」だったことで頭部固定でMRIに入ってる状態に急にアウシュビッツ感が強まり精神的に打撃を受ける。だって、言われるがままに検査場所に連れてかれて何が始まるのかよくわからないまま更衣室で身の回りのもの全部外して検査着に着替えて放射能マークがついてる扉の中に通されて遺体焼却の板と穴ってこんな大きさだったよね?ってところに入れられていくんだもの…そして工事音みたいなのが途切れて聞こえるバイオリンの旋律が「シンドラーのリスト」なんだもの…なんとなくクラシックぽいのがいいんじゃね?ってセレクトでそれは外してください…結果的に脳は異常なかったからよかったけど、腹部エコーで中度脂肪肝診断受けて運動しろって言われて、今まで運動するなって言ってたじゃんいきなりもう動いていいんすか!?ってなったら心臓の薬効いてきたのと涼しくなって熱中症の心配がなくなったからいいんだって。だから体育の日前日から踏み台昇降運動を再開した。下戸なのでアルコールは関係ないのとアレルギー体質の結果、揚げ物も洋菓子も食べられない体質とは思えないほど肝臓の数値が跳ね上がっているので、打つ手が運動しかない。3ヶ月ぶりにヨガ教室に行って最後まで倒れずにできたのもこの頃。

地味に帰り道で泣きそうなのこらえたくらい嬉しい。少し社会復帰できた気がするというか、社会から外れたところでしばらく生きていたと少し戻れた今、初めて気付いた。人間として全般的にうまく機能してなかったみたい。漠然とした不安感は社会との接点が失われてたこともあったとわかった。気を抜くと社会から滑り落ちてしまうから、この怖さは覚えておきたい。

この辺りで病名探しに完全に飽きてるけど、毎回の食事を写真に撮って報告することを提案されてそれ専用のインスタアカウント取って淡々と食事の記録を書いてたら武田百合子富士日記」風になってきて一人で高まってる。「富士日記」って元々公開前提じゃないからああいう文体になったのか!とか感動してる。飽きた分はフィギュアスケートシーズン開幕にちょうど合わせて仕上げてきてます。

11月:すっかり報告し忘れてた隠毛の円形脱毛症が改善したという話をしたら円形脱毛症は自己免疫疾患だから、ということでコンサータで免疫系統が大幅に変化してるということにやっと耳を貸してもらえるようになりました。アレルギー悪化、自己免疫疾患改善ってなんでしょうね?エビデンスがないエビデンスがないって私っていうエビデンスはなんなんですか、っていう心の叫びがやっと届いた。円形脱毛症報告が大事だったなんて…ついでに報告しますと歯医者でアメリカ大統領選でトランプ勝ったとか聞いて「え!?今!?私選挙マニアなんですよ!!!!!ずっと見てきたのに!!!!!!!」とか叫んでて歯医者中で噂の人になってしまいました。次に行った時にも女医さんに半笑いで選挙マニアなんですよね、って言われた…せめて歯医者では普通の人を装っていたかったのにこんなことで…そして文化の日辺りから花粉症のような症状が時々出てなんじゃこりゃ?と思って聞いたらヒノキ飛んでるんだって。
アレルギーその他諸々再検査やら追加検査やらしてみたら検査結果が届いたであろう日に病院から電話!CRPの数値が高いとかいう連絡きた!病人レベル上がった!高まる!そしてアレルギーの血液検査は相変わらず陰性なのに29日にジャガイモもアレルギー発症。あとは勤労感謝の日前日から部屋の模様替えを始めました。

12月:CRPの数値が高いということで紹介状持たされて道場破り再び、みたいな気分で行った病院では上咽頭炎とかいう雑魚キャラで済ませられた。心臓の病院では肝臓の数値が高音キープでコンサータが重要参考人から容疑者に格上げされてちょっとこれをどうするか話をつけるまで薬は出すからうちには来なくていい、みたいな感じになってやばいよやばいよって思いつつ発達障害QOLコンサータないとものすごく下がるんで必死に掃除という名の運動と睡眠をしっかり取ろうと努力はするけど、睡眠がどうもうまく取れないなあ(こんな時間までこんな記録書いてる)、コンサータ飲んで太った肝臓の数値悪い!に一つだけ思い当たるのが睡眠時間が短くなってるってことなんで、なんか寝なくても割と無理が効いちゃう分をごまかさないように2017年はします。そして掃除してたら顔が驚くほど左右で違って歪んでるのと顎関節症がひどいので、その場で検索して頭蓋骨矯正というものを受けてみようかと、掃除したらお金が出てきたから予約入れて行った。そしたら鬱とかパニック障害にも対応してくれるところだった。よくわかんないけど頭蓋骨見せてたらパニック障害の典型とか言われて調整された。輪郭は確かにまともになったけど、パニック障害よくわからないのは病名ブームに変わって飽きもせず黙々と部屋を片付けていたから。最初は花粉症の時期が来る前に出来るところまで!と焦り気味でしたが1ヶ月ちょっとやってりゃ部屋も整うし心も整ってきた。掃除・片付けはマイブームじゃなくて習慣として根付かせたい。綺麗になっていくのが結構楽しい。視界からごちゃごちゃしたものが消えていくたびに気持ちも楽になって、百八つの煩悩が消えてくってこういう感じ?とか思った。
ジャガイモアレルギーになって春雨もアウトになりもう味方は米だけ、私、日本人のDNA信じる!みたいなことになってますが、19日に里芋でもアレルギー発症、これがキウイ並のヤバさを感じたので即座にポララミン6錠投入、初期消火に成功と胸をなでおろしたのもつかの間、29日に駆け込みでタコでもアレルギー発症したぽい。ということで12月31日現在のアレルギーまとめますね。2月の私とくと見ておけ。

小麦(グルテン)アレルギー
りんごアレルギー
カフェインアレルギー
ラテックス(ゴム)アレルギー
紫外線アレルギー
アルコール過敏(下戸)
タバコの臭いで咳喘息
肉を食べると具合が悪くなる
・・・・・
以下追加
卵アレルギー
キウイアレルギー
アーモンドアレルギー
ナッツ類アレルギー
アボカドアレルギー
バナナアレルギー
トマトアレルギー
ジャガイモアレルギー
里芋アレルギー
タコアレルギー

月一ペースでアレルゲン食材増えてるよ!もうこのコレクション打ち止めにしたい!2017年はアレルギーが増えない方向で!むしろ減る方向で!画期的な治療待ってる!減感作療法?症状出てるのに血液検査で陰性になってしまう私ができるわけないでしょうが!でも一番きつい時期を猫を殺す方向ではない好奇心で乗り切って生き延びたのでADHDの特性の使い方も役に立つんだと思いました!だって死んだら原因わかんないじゃんつまんないじゃん。そう思ってるうちになんとなく夏が過ぎて少しずつ楽になって病名探しに飽きて飽きる程度に落ち着いて、一番の原因夏じゃね?とも考え始めたのでちょっと次の夏が来る前に避暑に出ようかと本気で迷ってる。私、よく考えたら日本においては避暑に関しては最適な土地出身だった。ただ実家は苦手なので、どこか他に1ヶ月くらい逗留できる場所ないか探してる。車社会では生きられないので札幌の地下鉄近辺でどこかないか探してます。あっという間の1年とかよく言うけど、今年に関しては長かった。夏がとにかく長かった。生き延びられるかどうかわからなかった。毎年夏にガクンと生命維持能力が下がるのは知ってたけど、今年はついに危険水域割った。来年の夏に東京で生き延びられるようになれるか、それとも避暑に逃げた方がいいのか、運動しながら検討していきたいところですが、とりあえずは皆様良いお年をお迎えください。私も迎えます。

愛と落伍と精霊の御名によりて

marginalism2016-09-05

 
 9月になってやっと少し体調が上向きになってきたので、今更ですが8/20に観に行ったNoism0『愛と精霊の家』埼玉公演の感想をまとめます。

 その頃の私は、原因不明の体調不良で病院をたらい回しにされている最中で、果たして会場までたどり着けるのかが一つの賭けでした。電車で座っていたら前に立っていた妊婦さんが私を避けて逆方向に行ったくらいだ。確かに席は譲れない体調だけど、この咳は夏風邪じゃないから……心臓がおかしくなってて出るものらしいから……って少しだけ悲しくなった。まあ与野本町まで席は譲れないから他の場所に行った方がいいことは確かなんだけど。異常な量の汗をかいて咳し始めたら移動するのわかりやすすぎるけど、私だって妊婦ならそうするけど。ただ夏風邪じゃないんだ、ってことだけ伝えたかったんだ……(体調不良に関してはおいおい詳しく別にまとめます)

 彩の国さいたま芸術劇場は基本的に蜷川演劇を観に行く場所だと思っていたので、なんだか不思議な気分になってそこを目指した。駅前の薔薇の花はこの季節だと枯れているんだ、って初めて知った。蜷川幸雄と共に花が消えてしまったと一瞬思ったけど、季節が来ればまた咲くんだよなきっと。
 生気を主張している草と枯れている薔薇を見て、私は蜷川幸雄がいなくなったさいたま芸術劇場に行くんだなと飲み込めない感情を持て余しながら大量の汗と咳にまみれて歩いてた。自分の内部が少しずつ腐って細胞が少しずつ死んでいるような感覚をずっと抱いていた夏の仕上げをしていた。

 リオオリンピックの話をしている人や何かのコンクールの話をしている人が遠い。耳をそばだてなくとも会話が聞こえてくる距離なのに遠い。遠いことに何の感情も持てなくただ遠い。私、こんな状態で舞台きちんと観ることができるんだろうか、感情湧くんだろうかということだけが不安だった。

 結果としては杞憂でした。

 男性陣登場時の動き、他のメンバーが外側の形からアプローチしているのに対し金森穣は内面から出てくるものに由来しているのがよくわかり、一人だけ全然違って、この人なんで他人に振り付けしてるのかなと思ってしまった。自分でここまで動けるのに自分の思ったように動けない人たちに振り付ける日々って相当ストレス溜まらないかな、他人に振り付けして自分の与えたもの、欲しいものとかけ離れたものを目の前で見せられるってどれだけ辛いんだろう。やっていることに対しての意義を自分で充分理解しているとしても「そうじゃない」という感情は抑えきれないだろう、その感情が沸かなきゃ嘘だ。自分が作ったものに責任持っている限り「そうじゃない」からは逃げられない。完全に折り合いをつけられたなら本人が踊らなくなるかもしれないからオーディエンスとしてはそれでいいんだけど、普段この人は気の遠くなるような苦労をしているんだとよくわかった。振り付け理解度に関してダンサーの力量に負う部分を今回は充分クリアしているように思えたし、それでもなお金森穣が際立っていたのは本人振り付けなのだからこの材料で比較するのはフェアじゃない、だから一度は「ダンサー金森穣」に徹した作品を観てみたいものです。金森穣が他の人間の振り付けを踊って初めて比較できる、それをやってみたいんだ。
 だって私、最初の方にある金森穣ソロで泣いたんだ。チャイ5クラリネット中心の運命動機にいちいち説得力を与える動きを置けてしまうダンサー金森穣の身体能力とコリオグラファー金森穣の楽曲理解度の素晴らしさに泣いたんだ。この音楽で陳腐にならずに酩酊もせずに、でも醒めすぎずにそれができるって難しいことだ。気を抜くと過度に情緒に流されやすいモチーフをうまく受け止める大樹のような包容力が素晴らしい。金森穣は木の楽器の使い方がいつもうまいと思っていたけどこの人自身の中に木があった。クラリネットのあの音域を表現する時にこの解釈ができるダンサーがいることはたまらなく嬉しい。

 原作であるところのウージェーヌ・イヨネスコ『椅子』は未読ですが、「人形・舞踊家・妻・母になれぬ女」というキーワードから『人形の家』のノラをまず思い浮かべました。1人の俳優が女の舞踊家に求めたものは割と素直にそれだったように受け止めました。俳優の元から離れて初めて女の人間としての人生が始まるのです。ここの場面転換で亡き王女のためのパヴァーヌピアノヴァージョンを採用したのもうまいと思いました。地味にホルン死ぬやつじゃなくてピアノ。オケ版だと録音であっても身構えてしまうんですが、ピアノであの音を出すのは難しいことではないから、すっと世界観に入れる。舞踊家の晴れの日ではなく日常の練習風景に使うならバレエの伴奏者が弾くような音の方が断然良いわけで。人形から一応子供*1に進化してるし、あそこの女はまだ幼い少女だと感じました。合わせ鏡の視覚効果はもちろん面白いんだけど、ああいう窓一枚隔てたコミュニケーションというシチュエーションになぜか昔から弱いので、ここでも少し目が潤んだのと同時に指導者と生徒という関係性が徐々にあやふやになっていくのがああいう演出でリアルになる。そら女は逃げ出すわ。私の目を潤ませた感情もまだ完全に整理できてないもの。記憶が消えている領域に関わってるんだもの。そういう生易しくない何かがあった。

 で、突然ジャズ組曲が割り込んでくることで女がどういう環境に飛び出したのかもよくわかります。あれやこれやがありました、ってことですねわかります。大人の階段上ってるところです。

 影絵パート、エスプリが利いてていいなと思った。他のキャストとは2人で踊っても実際に夫婦である組み合わせは影絵で済ますって洒落てるなと思った。2人舞台ならまだしも、他の男性とも組んで踊るところに配偶者が混ざると、どうしても温度差ができてしまう。それは観てる方も同じこと。だからこういう処理したことに感心したし影絵の中の夫婦喧嘩で笑った。でも周りが笑ってないのでビビった。え?ここ笑いどころだよね?って少しだけ戸惑った。そしてこの辺りで流れた音楽だけその場で特定できなくて、このチャイコフスキーみたいなマーラーみたいな音楽なんだったっけなんだったっけで結構脳の容量使ってます*2。頭のどこかをかすっているチャイコだかマーラーだかみたいな曲の特定班以外のリソースで小尻健太と井関佐和子の甘やかな踊り観てました。これアダージェットでも似合いそうだなーとか思って。なんの情報も持ってないって怖い。他意なくフラグ立ててた。妻であることから落ちこぼれて母になりかけたあたりの重層的な三角関係暗示も面白かったです。風船使って表現する効果も想像できてるのにこんなに迫ってくるの初めてだ。あの瞬間にショックすぎてすっかり悲しくなったもの。私は別に子供欲しいなんて思ったことないのに、また喪ってしまった女に感情移入して悲しくなったもの。そして男はみんな独善的だ!と憤ったもの。男性の演出振付なのに男の独善的な部分をしっかり描ける人ってなんなのだろう?とも考えてみたりもしたけど、ここの音楽特定して、浄められた夜だと判明したと同時に「そのままじゃねえか!!!なんで気付かなかったんだよ!!!!!」って自分に腹を立てたので結構観てた時の気持ち忘れてます。でも音楽に忠実というか演出に忠実な音楽というか、この作品は音楽踏まえた上で解釈すると、そうきたか!ってなりますね。多分ここだけ音楽を捕まえられなかったから私がその場でうまく咀嚼できてない部分が多いんだと思う。

 音楽がわからないなりにこの踊りアダージェット似合いそうだなは通奏低音で流れていたので、場面転換して耳を疑った。幻聴じゃないと理解して、あーってなった。こっちか、って。そして「これ私のことじゃん」ってこともやっと理解した。人形からも舞踊家(に類するもの)からも妻からも母からも落伍してる私のことじゃんって。何なら女からも落ちこぼれ気味だ。井関佐和子は自分が女であることに対しては自然に受け入れてるのでちょっと気付くの遅くなったけど、女という前提の土俵にすら上がるまでかなりの時間がかかった。求められる役割としての女からは完全に落伍してる。セクシュアリティとしての女も危うい。ただもう手垢の付いてない感性の部分だけは女だと思う。アダージェットで井関佐和子が繰り広げていた女は私だと思う。あれ、私は、老女が時系列が曖昧になって少女だったり若い女だったりする自分、高野文子が『田辺のつる』で描いたようなことになってる人だと捉えた。泣けた。ラストのなんとも言えない姿、動作は大いに泣けた。言葉に分解すると大切なものが抜け落ちてしまうから心の中にそっと閉じ込めた。アダージェットからの贈り物が宝箱にまた増えた。

 もはや人形にも舞踊家にも母にもなれないだろうけど、妻になる可能性だけはまだ残っているはずなので、もし誰かの妻になれたとしたら、私を妻にした夫とこの作品を観たいです。「これは私の話」と伝えた上で観たいです。そう言える人がいなければ妻からも落ちこぼれたままでいいです。なんというか気の利いた自立してる大人の小品といったテイストの舞台で、自分と舞台の間に感情の段差なく観ることができました。私、これを作り上げた人たちと対等に話せるんじゃないかなって初めて思った。別に縮こまる必要ないよね?同世代で同じような目線で同じような課題に取り組んでる人たちがそこにいるだけだと思った。この世界観に段差なく馴染めてるんだから私も大人なんだと痛感した。金森穣が素直に自分のスタイルを出すとこうなるんだろうそれは私のスタイルと遠くないはずだと自信が持てた。自分から遠くないものがあって救われた。身体の内部から弱ってくると全ての感覚が変わってしまい、持っているはずの自分のスタイルも遠くなってしまったとすっかり思い込んでいたけど、私まだ戦えると思った。養生して回復したら戦える。大人だから焦らず自分の身体を信じることにした。

高野文子(新潟出身)『田辺のつる』収録本

絶対安全剃刀―高野文子作品集

絶対安全剃刀―高野文子作品集

*1:亡き王女の設定が確か死者を思うわけではなく昔そこにいた子供だった王女を思い出すとかそんなん、そもそも題名からしてフランス語の言葉遊びだし

*2:答えはググる前にお前のiPhoneのmusic検索しろってオチでした……当日の使用楽曲の中でこの曲だけは持ち歩いているくせに忘れてるっていうな……

脱ぎ捨てられないシニフィアン・見捨てられたシニフィエ-祖父の連れて行かれた国-

marginalism2016-07-18


もう半月以上前の話になってしまいますが、熱を出しつつNoism劇的舞踊vol.3『ラ・バヤデール−幻の国』7/1KAAT公演に足を運びました。
http://labayadere.noism.jp/

その日までしばらく「どういうことか説明してください」とストレスで熱を出しながら下々の世界で日々の糧を得るために戦っていました。説明する言葉にも説明を求める言葉にも説明を求めなければ生きていけない社会にも苛立っていました。だから説明のいらない言葉と身体の境目が曖昧になるような世界に旅立ちたかった。

それで観た『ラ・バヤデール−幻の国』は世界観が大変説明しやすいように仕上がっていました。
制作過程をよく把握していませんが、平田オリザの脚本に書かれた言葉を単に説明している振りが多かったように思います。
私はクラシックバレエの『ラ・バヤデール』を知らないので、平田オリザ方面からどうしても入ってしまうんですが、そんなに説明するんだ?と一番驚いたのはミランが「そろそろムクゲの花が咲く頃だ、国に帰りたくなるだろう?」「カリオン族はヤンパオ風の名前を名乗らなければならなくなるんだろう?」というようなことを言われていたことです。『ムクゲの花』というタームが差し込まれた時点で、カリオン族=朝鮮族という規定を示している。でもそれだけなら『ムクゲの花』が朝鮮人にとって特別な花、現在の大統領の名前にも使われている花ということを気づかない人も大勢いるだろうから、そのエッセンスを持った架空の民族とするのはまだ可能かなと思おうとしたらダメ押しに創氏改名のこと持ち出された。そこでもう、ああこれ設定されている特定の民族を実際の民族と切り離さず素直に反映しちゃうんだとわかった。カリオン族=朝鮮族、ヤンパオ人=日本人、メンガイ族=漢民族馬賊モンゴル族、マランシュ族=満洲族という投影をすり抜けるのかと思ってた。いつものNoismならすり抜けるような気もしないでもないんだけれども、今回は平田オリザ脚本がそこは繋ぎ止めていたんだろう。出てくる人物も愛新覚羅溥儀みたいなのとか川島芳子みたいなのとか素直に、本当に素直にそのまま。私がその場で満州国と結びつけるモデルを見つけられなかった主要人物はクラシックバレエの配役の方にいました。オロル人のマランシュに亡命した大僧正という人物だけチベット人だとしたらダライ・ラマがインドに亡命した時期とは少しずれている、白系ロシア人ロシア正教の指導者か?と迷いましたが、バレエの『ラ・バヤデール』にいる大僧正をなんかそのあたり濁して配置してあるだけなんだろうな、深読みするほどのものでもないなと特定するのは切り上げました。ムラカミとされている人もモデルがいるのかどうかよくわかりませんでしたが、村上春樹が『ねじまき鳥クロニクル』で満州国を取り上げていたとかいうのを見かけたからここは全力で深追いしないことにした。
舞台は満州、とはっきり定義されていたので、学生時に読み耽った『流転の王妃の昭和史』(これ「流転の王妃」の昭和史―幻の"満州国" ってタイトルで文庫になったものもあるんですね。平田オリザ全部そのまますぎる…)『李香蘭 私の半生』『北京の碧い空を―わたしの生きた昭和』(小澤征爾母・小澤さくら著)、この辺りの知識が勝手に蘇ってきて世界観も掴みやすいというかするする入ってくる。私はうまく言語化できない消化しにくいものを望んでいたのにおかゆが出された。確かに体調不良の体におかゆは優しいけども、それは望んでいなかった。ほとんどのダンサーが平田オリザの脚本を説明するだけの振りで何を言いたいか教えてくれる。逐語的に教えて欲しくなんかなかった。わざわざ自分の肉体を通して言葉を発する俳優3人を呼んでいるんだから、言葉は彼ら彼女らに全て託して感情を踊って欲しかった。愛新覚羅溥儀ことプージェが誰なのかキャスト表に書かれてなかったからわかりませんし、わからなくさせていることで傀儡政権ですから誰でもいいんですよ、ってやっぱり説明してくれてるんだと思いますが、彼の代わりに言葉を発するムラカミ役の貴島豪の肉体を通した言葉の通り方は好きでした。能楽師みたいな発声だなと思いました。夢か現か幻か、という場所へ連れて行ってくれるのが大多数のダンサーではなくて俳優だったことは少し皮肉なことでしたが、ダンサーの中でも平田オリザの言葉に引きずられていない人は少数ながらいました。

石原悠子の役割は説明しなければならないキャラクターなので、この人はこう踊る必然性がある。他のダンサーの説明的な踊りとは意味が違う。彼女の踊りが引き立つのではなく周囲にすんなり溶け込んでしまったことが問題だ。本来なら他のダンサーの中に入っても浮いてしまう役柄のはずだからだ。みんなで説明しなくてよかった、俳優以外では彼女がそれを一手に引き受けるべき作りのはずだからだ。
井関佐和子はよく見る「強い女」ではなくて「儚い女」「夢の女」「幻の女」という透き通った存在感がとても良かったです。この人と中川賢だけが脚本に書かれた言葉に込められた感情を自分の身体で咀嚼して全身から感情として発してました。ミランと彼女が属する踊り子たちの集団は朝鮮のムーダンなのかなと解釈しましたが、カリオン族=朝鮮族と指し示される前、ミランが登場した瞬間から「16歳のキム・ヨナ」を思い出していました。「揚げひばり」のキム・ヨナが『カナダの養女』を称することなく、アジア的感性の中で育まれていたらこうなっていたのかな、という結果的には選ばれなかった可能性の幻をそこに見ました。中川賢のバートルの翻弄され方も素晴らしかったです。特に阿片しか頼れるものがなくなった後の灼けつくような男の悲壮感。ただ痛々しいだけの悲愴と違って、それでもまだ何かを求めて戦おうとする意志は感じられるんです。根っからの戦士であるバートルだからこその悲しさが伝わってくるんです。ミランが「16歳のキム・ヨナ」なら阿片漬けのバートルは「eye初演の高橋大輔」だと思いました。あまりにもセンシュアルでセンシティヴでセンセーショナルで私が新横浜からの帰り道で泣きそうになって一刻も早く家についてドアを閉めて泣き出したい、と急いだ、そして実際にドアを閉めた瞬間にボロボロに崩れ落ちて泣いた高橋大輔です。なので、「16歳のキム・ヨナ」と「eye初演の高橋大輔」が邂逅するシーンの美しい夢は何も考えず身を委ねました。ずっとそうしたかったように。最後にやっと私は私が観たかったダンスにたどり着きました。阿片はもちろん酒に酔うこともできない私が酔えるのはこういう場所だけなんです。ずっと私は酔いたかったんです、言葉のない世界、確かなことがない世界で揺蕩いたかったんです。

ラストにかけてやっと私は説明する言葉から解放されて楽になったけれど、全体を通すと「パクチーナンプラーは入ってるけど、それでも胃に優しいおかゆ」でしかなかったです。『カルメン』の時はほとんどのダンサーが全身から感情を発していたように思えたのに、今回は脚本が平田オリザだからでしょうか、その人の言葉に遠慮してそれを尊重しすぎていたように思います。でもダンサーにとって言葉を尊重するってそういうことなんでしょうか?言葉なんてただの記号です。言葉という記号で描かれた心象風景を咀嚼して自分の血肉にして持って生まれた身体の動きを通して表現しなければならないものではないんでしょうか?言葉の説明ではなくて言葉を飛び越えてきて欲しかったです。それを求めるのは観衆のわがままですか?
脚本の世界観にもそのままスッキリ対応できるものを入れるんじゃなくて、五族協和というタームを使うなら、ユーゴスラビアの「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」というようなものもポリフォニックに重ねてくるのかと途中までは構えてたんです。まさかひねりなくそのまま解釈していいものだとは思ってなかった。でもこの辺りは趣味嗜好の問題になってくるから私の好みを押し付けられるものでもないんで、これはこれで尊重しますけども。満州ソ連も「幻の国」になってしまいましたが、私が現在進行形でその後を生きている人が気になる「幻の国」が単にユーゴスラビアというだけの思い入れの問題でもあるでしょうし。
ただ、NODA・MAPの『エッグ』もそうなんだけど、一部で見かける最近の満州推しってなんなのかな、というのは少し引っかかっていたりします。平田オリザはなんで舞台を満州国に設定したんだろう、ということはずっと考えています。

流転の王妃の昭和史 (中公文庫)

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李香蘭 私の半生

李香蘭 私の半生

北京の碧い空を―わたしの生きた昭和 (角川文庫)

北京の碧い空を―わたしの生きた昭和 (角川文庫)


http://www.youtube.com/watch?v=zzSENlsfVIc

http://www.youtube.com/watch?v=K5WcfMyo0Tc

Je suis persécuteur

marginalism2016-03-31


ボストンワールドには行けないけれど、せめてもの予習を兼ねて、ほぼ飛び込みのような形で平山素子「Hybrid -Rhythm & Dance」3月25日公演チケット取って駆け込みました、と思ったら今回は平山素子の指導受けてる村上佳菜子選手は代表入りしてなかった…あ、でもきっと同じチームの宇野昌磨選手も指導受けてるよね?と気を取り直して観ました。
http://www.nntt.jac.go.jp/dance/performance/150109_006136.html

コレオグラファーとしての平山素子は逐語的というか逐音的な人なんですね。ジャッジがいてある程度のわかりやすさを求められる採点競技の指導をしているからか、もともとそういう人だから採点競技の指導に向いているのかは掴めなかったのですが、シンクロナイズドスイミングやフィギュアスケートの魅せ方に長けていることは伝わりました。そしてコミットの度合いがフィギュアスケートよりシンクロナイズドスイミングの方がよっぽど深いことも伝わってきて、フィギュアスケートの予習をしに行ったつもりがシンクロナイズドスイミングの予習になってしまった。コンテンポラリーダンスにシンクロナイズドスイミングの文法をかなり大胆に取り込んで、陸でああいう表現をできること、芸術スポーツの芸術性の可能性を広げていることには興奮したので、いずれはフィギュアスケートの文法もああやって取り込んで欲しい。いつか私はコンテンポラリーダンスでツイストリフトを観て驚きたい。会場行くとペアの選手が陸でツイスト練習してるから可能だと思うんです。今回はフィギュアスケートの影は薄くて、カップル競技のリフト的な感じ?いやでもあれはもともとフロアダンスからの持ち込みの部分もあるよな?とか、これはフィギュアから?シンクロから?と、疑問符がつくようなものでしか感じられなかったので、シンクロナイズドスイミングのように明らかにあの動きを持ってきた!というものをいつか観たい。
わかりやすかった分、素材を充分に活かしきれているだろうか、というのがうまく消化できなかった部分もあって、チャラパルタという遠目からだと原始的なマリンバのような楽器の上で踊るシークエンスがあったんですが、これ「楽器の上で踊ったら面白いよね」以外のことが伝わってこなかったんです。とても魅力的な楽器を知れたことは良かったし、その楽器の上で踊るのは確かに面白いんだけど、必然性がわからなかった。面白い、だけで充分だと私は思えなかった。言葉にできない・語りつくせない想いを表現できるからこそ踊っているダンサーを生で観たい私にとって、これは言葉で説明できることなので物足りないところがあった。現代社会においてはわかりやすさを求められすぎて疲れてしまい、舞台上で自由に難解と言われがちなことをしている人が好きだから、羨ましいから、勇気付けられるから、コンテンポラリーダンスの会場まで足を運ぶ。わかりやすいものを求めるなら芸術スポーツやクラシックバレエを観れば事足りるから、そこからこぼれ落ちたものを観たい。純粋に踊りだけについて考えるとそういう部分があった。

でも、公演自体においては「こぼれ落ちたもの」というより、私が「こぼれ落とさせたもの」を突きつけられて、そのインパクトが強すぎてそこにリソースを割かざるを得ませんでした。

床絵美のアイヌの歌。略奪され迫害され、そして絶滅寸前まで追いやられて保護対象にさせられた民族の歌。透き通った美しい繊細な歌。こういったものを略奪し迫害し、絶滅寸前まで追いやったのは私だ。私はそうやって北海道に住み着いた和人の子孫だ。在日コリアン被差別部落という単語を見ても皮膚感覚でわからない土地で私が受けた人権や差別の授業の題材はアイヌ民族の話だった。しかしアイヌすら既に遠い存在で、オールナイトニッポン土曜2部を聞き終えて始まるアイヌ語講座を土曜と日曜の境目に、夢か現か幻か、くらいのぼんやりした感覚で耳にしていた記憶しかない。そんな茫洋としたイメージを打ち破って突然目の前にはっきりと現実に生きている存在としてアイヌが登場した瞬間、自分の加害者性が露見されて極度に動揺した。床絵美は別に自分が被害者だと訴えているわけでもなく、私を加害者だと糾弾しているわけでもなく、ただ繊細に美しく旋律を奏でているだけだ。だからこそ辛かった。私や私の周囲や私の祖先はこういう美しいものを奪おうとしていたし、現在もなおしている。現存する民族として認識していなかったとはそういうことだ。スティーヴ・ライヒの「Different Trains」のラストに使われている、ドイツ兵が声の美しいユダヤ人の少女を収容所で歌わせ拍手してアンコールをせがむ、というエピソードを私はおぞましいものだと思っていた。悪気がないからこそ生まれているドイツ兵の暴力性に腹を立てて、ユダヤ人の少女はどれだけ恐ろしかったことだろうと悲しくなり、これを「美しい光景」と解釈する人間の多さに暗澹たる気分になった。なのに私もまたドイツ兵だったのだ。常々加害者が自身の醜悪さを「和解の美しさ」と摺り替えごまかす行為に対して批判していたからには、ああいう行為をせず、せめてもの誠実さを失わずに関わりたいと五感をそらさずそこにいた。苦しかった。だけど絶対逃げたくなかった。逃げたら私を傷つけた人間と同じになってしまう。そっちの方が嫌だった。

帰途、今まで自分がやってきた行為が反転して刺さってきて、何てことをしてきたのだろうと恥じた。私から逃げ出した人たちのことも思った。さぞかし苦しかったことだろう、逃げ出したくなる気持ちもわかった。でも、私は逃げ出された方の気持ちだって知っている。だから絶対これは受け止め切らなきゃならない、そうしないと私は私のことを生きてられないほど決定的に嫌ってしまうから。そして必死にあげている声が届かないメカニズムを改良したいから。そんなことを言い聞かせて外を見ていた。

個人的鑑賞

marginalism2016-02-28

Noism1×Noism2合同公演 劇的舞踊『カルメン』再演、KAAT初日に観に行ってきました。
http://noism.jp/carmen2016/
今回の再演で一番気になっていたのは、ミカエラが初演キャストではなくなってしまうことでした。
井関佐和子のカルメンが素晴らしかったのはもちろんのことですが、初演時は真下恵のミカエラと中川賢のホセがその素晴らしさを支えていたように思っていたので、ミカエラのキャストが変わるとどうなるのかなと。
カエラという登場人物は「仲間はずれ」なんですよね。物語世界の中では居場所を与えられていない、役割がない役なんです。外側にいる学者には狂言回しという役割があって、物語世界と狂言回しの間を行き来している老婆ドロッテにはトリックスターという役割がある。そういう外側の人が語るお話の中でミカエラは「世界に入れない人」なんです。ロマという言い換えはカルメンを語る上ではまどろっこしいので、ジプシーという表現をあえて使いますけど、基本的にはジプシーと兵隊の日常に起こったことを学者が説明します、という構造になっていて、そういった役割に属さない作中人物ってミカエラだけなんです。ホセは「日常」にいる地点から始まって、どんどん「非日常」へ追い込まれていく人ですが、ミカエラは一人だけ最初から最後まで「非日常」の人なんです。そして、それは観客である私たちに一番近い立ち位置でもあります。この国にはジプシーもいないし、兵隊も建前上はいないことになってるから、ミカエラが触れた彼ら彼女らの生活への感情が、舞台を観ている私たちの感情とシンクロする部分はあるんですね。
そんな「見てる人」だったミカエラが「踊る人」「踊らざるを得ない人」へと変貌する過程が初演で印象に残った部分の一つだったものですから、それを成し遂げたダンサーが客席側にいるってどういうことなんだろう、意味がわからない、と幕が上がるまでは思っていました。
でもそんなことはいざ始まってみたらどうでもよくなりました。初演時にキャラクターをしっかり作りこんであるので、あとはそこにキャスティングされたダンサーの個性を足していくだけということになっていました。ミカエラはちゃんとミカエラでした。

再演だからでしょうか、カンパニーがオーディエンスを信頼してくれているのも感じました。初演と同じ役にキャスティングされていたダンサーに顕著にそれを感じたかな。清々しいまでに振り切って表現したり、前回より余裕や遊びをキャラクターに持たせていたり、体に既にその人物が入っている人は初役の人とは違うアプローチをしていたように思います。特にホセの人物解釈の深みが初演に比べ格段に増していた。今回、前から2列目の席だったのですが、ルビコン川を渡った瞬間のホセの表情にゾクッとしました。ダンサーが自意識で作り上げたものというより、その場の空気によって引き出されたものじゃないかな、あれ。

結構細かい所ちょくちょく変えてあったような気もするけど、キャストが変わればその人に合わせて手直しするのもまあ当然だろうし、全般的に初演に比べて整理された構成になってた気もするんだけど、初演の記憶がほとんどないんですよね。いちいち後で思い返すために記憶するのやめた、全て脱ぎ捨ててこの空間に自分を投げ込んで楽しもう、と思ったし、こんな作品に対して後からグダグダ書き連ねるのも野暮だなとも思ったし。(そのせいで今、初演のことをほとんど思い出せてなくて、こんなにリフト多かったっけ?とかいうのをすり合わせられず後悔してるんだけど)
いずれにせよ、初演の初期衝動の熱さも、今回の再演の粗熱が取れてよりよく整理されて出されてきた(と思われる)仕上がりも両方楽しめました。Noismの『カルメン』はピナ作品における『コンタクトホーフ』、ベジャール作品における『ボレロ』並の代表作になると思っているので、これからも節目節目で再演してほしい。骨格がしっかりしてるから10代だけで上演とか老人だけで上演とか、カルメンを男性にするとか、そういう冒険しても耐えうる強度があるはず。だからNoism2のお嬢さんかなと思うんだけど、休憩終わって第2幕開始のために階段を降りながら客席を見ている時、今あなた白鳥じゃなくてジプシー女なんだから、もっとえげつなくこっちを舐め回すように値踏みして睨みつけていいのよ、初々しくて可愛らしいけども、もっと飢えて、牙を剥いて、などとこっそり念を送ったりもしました。

ただ、叫びの多用が少し気になって。

声の存在感ってものすごいんですね。肉体表現を凌駕するんです。私は言葉から解放されたくてコンテンポラリーダンスを観に足を運ぶんだけど、ダンサーの声を使った叫びは肉体の叫びをかき消してしまうんです。言葉には完全に負けます。ダンサーがこちらに伝えようとするものはあくまでも肉体表現で伝えて欲しいと個人的には思ってしまうんです。役者が声を使い言葉を使うことについては全く構わないです。その人たちはそれを使うことを常日頃からトレーニングしているプロですから。この舞台においてもそれは変わりません。でもダンサーって声で表現するプロではないよね?声を聞きたいなら、それを専門としたプロの舞台をちゃんと観に行くし、この舞台の構成って語りと踊りを分業しているから、ギリギリ今回はアリ、くらいのさじ加減にはなっているんだけど、これ以上やるとくどくなるかな、という線だったようにも思えました。
私が今まで観てきたNoismの作品だと『ZAZA〜祈りと欲望の間に』『ASU〜不可視への献身』『箱入り娘』あたりで声や言葉を印象的に使っていて、それらに対してはこういう感情を抱かなかったので、何が違うんだろうとしばらく考えてみたんですが、『カルメン』ってNoismがやらなくても既に散々手垢のついたイメージとあらすじが世間に流布されているものじゃないですか。初めて世界観を提示します、って作品だと、声や言葉はそこにコミットするための手助けになるんだけど、カルメンはいやいやそこまで説明してもらわなくてもわかります大丈夫、むしろもっと分かりにくくしても平気、って気分になってしまったみたいです。
何か技術的に新しいものを導入する時にこういう題材って重宝するんだと思うんです。ある程度のことを省いても平気。手垢にまみれた部分は綺麗に拭き取り、その上に新しいものを積み上げていっても、オーディエンスにも常識としてアウトラインは入っているから各々世界観の自己補完ができるんですよ。それだけに、やりすぎるとすぐ陳腐になってしまうので、メインストリームは足し算より引き算の方が必要になってくる。引いた部分に新しい何かを加えないとこの時代に新作として提示する意味がない。その試みが概ねうまくハマってるんだけど、今回は再演だったということもあるのか、私のコンディションに対して声がややノイズになってしまっていたのかもしれないです。

あとはもう本当にごく個人的なことで、私以外の人には全く関係ないんですけど、Noismには現在二人、私と通った場所を共有している人が所属していて、それぞれに勝手に親近感を抱いているところがあったんです。一人は同じ大学の出身者、もう一人は高校時代に楽器を抱えてレッスンに通ったりセンター試験を受けに行ったりした地元の大学の出身者で、私の世界は18歳で都会の大学に進学した時点でパッキリ二つに分割されているのに、どちらの私のトポスにも接している人がいて、そして今回の配役ではたまたま都会の私が田舎の私を殺すという構図になっていて、田舎の私が都会の私に葬られたことになんだかとても安堵したんだ。私はもうあんなところに戻りたくはない。だから、もう戻らなくていいと舞台上から思いがけなく言われたようで嬉しかったんだ。