私は孤独で幸せだ

松浦理英子のエッセイといっていいのかな、「優しい去勢のために」と「ポケット・フェティッシュ」を続けて読んだ。ずっと読みさしで放っておいたのをやっと読み切った。

優しい去勢のために (ちくま文庫)

優しい去勢のために (ちくま文庫)

これで一応単行本や文庫になっている単著は全て読んだのだけど、私はこの人と違うところがあると確認できて安心しました。物書きとして誰かと個性がかぶることは恐ろしいことで、しかも影響を多大に受けた人の焼き直しに自分がなってなければいいのだけどそれはあまり自分自身ではわからないことだから、彼女と私がきっぱり違うところがあってよかったです。
何が違うって根ざしている音楽が違ったのがよかった。彼女はクラシック音楽に対してあまり肯定的なことを書いていないのがよかった。私は音楽に関してはどうしても根ざしている畑がクラシックになってしまうから(なぜエレクトーンではなくピアノを選んだのか、サックスやトランペットではなくクラリネットを選んだかについてはよくわからないけど多分親の意向だと思う、自分の娘をそういう娘に仕立て上げたいという願望の投影)(近くで習える環境があったならフィギュアスケートだって習わせてもらえただろう、あの競技は「そういう娘」の範疇だ)、動機はともかく結果としてはそうなってしまっているから、彼女との鮮明な違いがあってよかった。

松浦理英子という極めて優れた作家に関して多くの人々は知らず、名前だけは知っているという人がかろうじて親指P〜のタイトルを(それも多くの場合うろ覚えで)あげるくらいですが、長年愛読者として過ごしていると彼女を精読している友人何人かに出会うこともできて、それで思ったのはそういう人々の中でも自分は少数派であるということ。
つまり彼女を愛読している人々の多くはレズビアンバイセクシュアルかゲイであるというよくよく考えれば当然なことに私が思い至っていなかったこと、もう一つの読者対象であると思われるSM嗜好だとサディストかマゾヒストかという問いに関しては私はマゾヒストだと即答できるけども、本気でその世界に足を突っ込んでいる人間ではなく観念の上でそういう人間であるというだけのこと、結局の所私は性愛に関してはただのヘテロセクシュアルであり、SMに関しても属している性の人間が現在の状況でそれほど考えずにふるまえばそちら側に振り分けられるであろう程度にしか冒険心を持ち合わせていない保守的な人間であること。保守的の度が過ぎて潔癖性であるが故に彼女にすがる読者であったのだけども、そういう人間の方がこのもともと少ないパイの中でもマイノリティであるらしい。そもそも自分の性愛態度がわかるところまで辿り着くのにひどく時間と労を費やした。自分にだって性愛に対する欲望が埋まっていることを認めたくないが故に。
なので彼女を愛読している人々の多くがバイブルとして扱っている「ナチュラル・ウーマン」にそれほどの愛着がなく、私にとってのそういった対象は「葬儀の日」であること、それ自体が特別な態度として成立してしまうことにあまりにも長い間気付いていなく、それが特別であることに居心地のよい孤独感を覚えてしまって、エキセントリックであることにはそれほど興味がないけれど、小説の中の彼女達と同年代の時の小説世界との対話が私だけの特別な体験であるような気につい錯覚してしまい、そこにどうしようもなく私が生きていたように思い、その体験を心の中に持っていることがいくら自意識過剰とのそしりを受けたとしてもやっぱり今でもひっそりと煌めいていて嬉しい。
狂ったように本を読んでいた、と当時の私について形容した人がいたけども、それは逆で本や活字を追っていないと狂ってしまいそうだったから、他のことに考えが及ばないように本の中に生きていたのです。傍観者でいられる本は私には必要のない本だった。そこに私が使える知識や生きていける世界が提示されていなければ(そしてたいていの本はそういうもので)心底失望してまた次の本にとりかかって自分が狂ってしまわないために必要な私のユートピアを探していたのでした。

本の中以外にも生きていける場所を少しずつ築き上げて、今、その当時のことを思い返しつつ松浦理英子の若かりし頃のエッセイを読みつつ、ホロヴィッツのピアノの音を聴いていますと、自身の貧弱になってしまった手首を悲しく思いますが、悲しさと同時にこの手首がこれほど貧しくなったことと引き換えに自分が手に入れたものは豊穣たる観念であるとも思い、この世のものとは思えぬ煌めきをこの世に定着させる仕事の尊さに心打たれるのでありました。孤独であるからこそこの世のものとは思えぬ光り輝く音や文章が紡ぎ出せるのであったら、私にはその可能性があるのだと信じられるので私は今嬉しいです。一人でいる時間がないと参ってしまう人間にとっては「孤独」というのはそんなに悪いものじゃないんだと思います。一人じゃ何も決められない人間だけにはなりたくないです。一人でいることがどういうことかわかって初めて他の人を認めてその人格と付き合っていけるんだと思います。
放っておいてほしい時に放っておいてくれない人って意外と多いよね。私が東京に住み続けているのは適度に放っておいてくれる環境がここにはあるから、それが一番大きい。